4・16「香川女性の日」へ 婦人部・女子部が拡大月間


 4・16「香川女の日」へ「桜満開! 幸の対話拡大間」(〜420日)を快活に進む婦人部・女子部。「女の時代」をリードする一体の絆が麗しい。間に合わせて、女子部の代表・HAさん=部長=とN総県婦人部長に語り合ってもらった。

対話で咲かそう満開の幸の花

 H 416日は「香川女の日」です。
 N 昭和60年(1985年)416日、池田先生が庵治の研修道場を訪問され、婦人部・女子部の代表と懇談してくださったことが淵源です。
 H 女子部は今、「華陽スクラム」の拡大に挑戦中です。婦人部長の女子部時代のことを、ぜひ聞かせていただけませんか。


池田誉会長の「切り抜き帳」
 N 県女子部長の時、池田先生が使っておられた1冊のノートをいただいたことがあります。先生が初めて四国研修道場を訪問された昭和53年(78年)1のことです。
 B5判の普通のノートでしたが、開くと、四国での模様を報道した聖教新聞の記事が日付ごとに整理されて張られていました。
 H 先生の切り抜き帳だったんですね。
 N “先生は、聖教をこうして大切に使っておられるんだ”と初めて知りました。それから、私も切り抜きを始めたんです。
 先生は桜がお好きだと聞いたので「桜ノート」と命。以来ずっと続けていますが、自分自身の信の記録帳にもなっています。


“集合離散”のリズムが大事
 N 「女子部は集合離散のリズムが大事だよ」と教えてくださったのも、この時。33日に香川女子部1000人の「青春大会」を開催しては、とご提案いただいたんです。
 1000人というのは、それまでにない目標ですから、もう、祈って、一人一人に会うしかない。婦人部も壮年部も男子部も応援してくれて、1008人の女子部員が集いました。
 H すごい!でも、なかなか会えない方やあえても気持ちが通じない方もいます。
 N 婦人部にも共通する悩みですね。でも、“あの人は無理”と決めつけないことが大切。どんな使命があるか分からないもの。い通りにいかないからこそ、道修行もできるのだからね。
 H 気持ちが楽になりました(笑い)。


満開の「幸の花」「友好の花」を!
 N やはり、一人一人を大切にって、誠実に祈り、かかわり続けることですね。
 H 池田華陽会歌「華陽の誓い」の歌詞にも「華陽の姉妹」とあります。
 N 「何でも相談できる先輩」「役職に関係なく、自分と同じ気持ちで学会活動する仲間・後輩」を、ぜひつくってくださいね。
 4に向けて、女子部と婦人部で「友好対話の花」「幸の花」を咲かせましょう。
 H 頑張ります!

【2009-3-27付 聖教新聞 香川方面版より】


注・本文中の氏はイニシャルに変えています。

特別寄稿 次代を開くキーワード5


―― 四国新聞 ――

希望の春は母から生まれる

 四国は「四季の国」。春夏秋冬に、美しき自然との絵巻が織りなされゆく宝土(ほうど)である。
 秀麗な飯野山の裾野(すその)に広がる丸亀市飯山町では、桃源郷のごとく桃の花が満開の時を迎える。
 いにしえより、桃は豊かな生命力の象徴である。ひな祭りでも桃の花が飾られ、愛娘(まなむすめ)の健やかな成長を願う親が託されてきた。家庭であれ、地域であれ、明るい女の語らいは、希望の花である。
 高市の「いただきさん」は、サイドカー型の自転車や手押し車で、魚を商う女たちである。
 「いただきさん」が街角に立つと、人の輪ができる。料理や献立のアドバイスなど、会話を楽しみにする人も多いという。温かなふれあいと元気まで運んでくれる。瀬戸内の海の幸が、家庭の幸へ、地域の幸へと広がっていくのだ。「おさかな、ご用」のは、街のすみずみまで活力を送る。
 「たくましく真剣に働く母たちこそ、どんな貴婦人よりも気高い」と、私は青年に語ってきた。
「わが母の労の姿を、謝を込めて、一家の誇りとして語り伝えていくんだよ」と。


教育の先進県 香川の慈愛の光
 歴史を振り返れば、厳しい冬の時代を打ち破って、女が活躍しゆく春の時代を開いてこられたのが、香川の母たちだ。
 三豊市山本町出身の花岡タネ先生と、小豆島町生まれの村崎サイ先生は、女の可能を教育で開こうと生涯を捧(ささ)げた先駆者である。共に明治期、裁縫学校から信の一歩を踏み出した。大情熱の対話で幾多の人々を味方にしつつ、教育の聖を推進された。
 今、花岡先生の学校は坂出第一高校に、村崎先生の学校は、さぬき市にもキャンパスを置く徳島文理大学・女子短大へ大発展している。
 豊かな母は、豊かな教育力の泉である。
 日本女として初めて博士号を取得した植物学者の保井コノ先生は、東かがわ市三本に生まれた。男優位の社会で、何倍もの努力を重ねて大学者となっても、誉も求めず、地位も願わず、ただ自分の渾身(こんしん)の仕事が残りゆくことで満足とされた。
 「問題はこれからの研究にあります」――。
 毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)を見下ろし、未来を見つめて次の世代の道を開く女たちのは、あまりにも深い。


一人を大切にする 母のに学べ
 一人の人を大切にし、尊き生命を励まし護(まも)る。この女の勇気と智(ちえ)から、平和の春風が薫(かお)る。
 私と妻の知人で、高市の南部の山間地域で20年以上、婦人消防団を務めてこられた方がいる。
 数年前の台風の際は、山崩れで道路が寸断された。復旧までの約1カ間、その婦人は、一人暮らしのお年寄りのために、倒木を越え、土砂を越えて、毎毎晩、食事を届け、励まし続けた。
 観音寺市で、わが子を亡くした悲しみや甲状腺がんを乗り越え、「読み聞かせ」の運動を続けてきた女は、「生命から迸(ほとばし)る喜びや動をに響かせて子どもたちに伝えていきたい」と微笑(ほほえ)む。
 鎌倉時代の大先哲は、「国」という字を「くにがまえに民」(注フォントにない)すなわち「口」に「民」と書いた。国の宝とは、大誠実の民衆であり、優しく賢明な母たちである。
 「何かを変えたいとったら、まず自分自身を変えることですね」と語っておられたのは、「アフリカの環境の母」マータイ博士であった。
 希望がなければ、希望を創(つく)ればよい。闇が深いほど、自らが太陽となって朗らかに輝くのだ。
 幸福の花には、忍耐という大地が必要である。「冬は必ず春となる」。
 四季の国・四国のお母さま方の健康長寿を、私は妻と祈る日々である。
 晴れやかに
  春は来りて 桃の花
    あなたのが 光りて満開

=おわり=
【2009-3-18付 四国新聞



わが地域のことを、池田先生は『「四国」は別「志国」であり「詩国」なのです』と呼びかけられている。
その上、地元の人も知らないような、香川出身の先人の方々を宣揚して下さっている。


田舎といっていい、わが四国は日本の中でも、少子高齢化や不況の影響を最も早く受けているといえます。


この特別寄稿は「四国頑張れ!四国頑張れ!」とのエールが込められているようにじてならない。
私は師が「四国が勝てば全国も勝てるんだよ」と語りかけられているとうのです。


私の使命も、四国の同志の使命も大きい。
反転攻勢の原点の地「四国」!
どんなことがあっても「日々前進」だ!
同志と共に!
友人と共に!
四国の天地で勝鬨の雄たけびをあげ、勝利の歴史を刻んでいきたい。

高知・南国圏勤行会2

強く、前へ、その人が勝利者


 人生は“強く”また“強く”生きることである。“前に”また“前に”進み続けることである。頭を上げて、堂々と生きる人は幸福である。その人に、人生は道を開ける。も逃げていく。
 かつて、この高知においても、御存じのとおり、子への迫害の嵐が吹き荒れた。悪侶のために、どれほど皆がいじめられたことか。多くの人が涙を流し、私はその訴えを聞いた。この事実は一生涯、私たちの胸から離れないであろう。
 2度と、こうした不幸の歴史を繰り返してはならない。鋭く真実を見抜き、強く護法のために戦わねばならない。「大勇」の信に、乗り越えられぬ山はなく、打ち破れない壁はない。
 これからも広宣流布の途上には、どんながあるかわからない。しかし、何ものも恐れることはない。「法華経の兵法」に勝るものはないからである。
 正義を正義として、真実を真実として、勇敢に叫びきっていくことである。沈黙する必要はない。へつらう必要も絶対にない。中世の暗黒時代とは違うのである。
 とくに信仰の世界においては、活動に参加するのも、会館の会合に来るのもすべて、幸福になるためである。皆、から納得できる人生のために信仰している。ゆえに指導者は、絶対に子を地悪く抑えつけてはならない。
 会えばホッとする。何でも話せるし、喜びと希望がわいてくる。それが真の指導者である。行けばホッとする。道修行への勇気がみなぎってくる。それが会館の使命である。この点、職員の方々も、よろしくお願い申し上げたい。

1990-11-26 高知・南国圏勤行会 南国文化会館 全集75巻343ページ】


1990年(平成2年)は「原点・求道の年」。
余談だが、私は8に「地区リーダー夏季講習会」(大石寺)に参加した。
前日にあった「創価班研修会」と後日にあった「牙会研修会」にこられた池田先生は、来られていませんでした。
でも、私には、いい刺激になりました。


それはさておき、ご存じの通り、第2次宗門問題が起こった年である。
高知指導直前の116日「第35回本部幹部会」でのスピーチに対して、癖をつけてきたのが天日顕だ。
「第九」を歌うことは「謗法」との、人類の英知が残した文化を否定したのだ。


後でわかったことだが、この年の7には「C作戦」の謀略が宗門内で計画されていた。
721日池田SGI会長、秋谷会長が目通りした際、日顕は、
法主の発言を封じた、驕慢だ! 驕慢謗法だ」と怒鳴った。そして池田誉会長に対しても、「あんたにもいっておきたいことがある。懲にかけるから」(地涌176号より)と言い放った。
参考資料「創価クロニクル1990年」


当時、私たちは何が起こっているのか、まだまだ良くわかってはいなかった。
伝わってきたのは、「お尋ね文書」の件と「1227日の宗規改正により池田先生が総講頭を罷免」ということだけだった。
これも当初は、宗規が変わったためという柔らかなじであったようにう。
新年にも地元寺院に、警備着任したと記憶している。


私にとって第2次宗門問題は、まさに、紛(まぎ)らわしく突然に、紛然(ふんぜん)と起こってきたのです。
本当のことが伝わってきたのは、ずっと後のことであった。
翌年に宗門は、一方的に学会員を破門しました。学会員としては、日顕を否定したわけでもなんでもなく、あっちがかってに破門したわけです。
こんなのも珍しい話だ。
当時の学会員さんは、登山(一回は大石寺に詣でる)とか日帰り登山とか、私でも学会活動を始めてから年間2回は登山会に参加していましたからね。
だいたいそのように、熱な信徒であった創価学会員を、供養を受けていた坊主が一方的に破門したのですから。考えると変な話なのです。


まあ、「破門されなくても」その時にはかなりのことが分かってましたから。
「何をいまさら」てなじでしたけど(笑)
坊主いらないしー。
大石寺の歴史は、富士の清流どころか、濁りきった濁流だったこともわかってたしー。チーン(爆)


いまでは、どこからどうみても「創価学会」の完勝だ。
そして、宗教的権威主義(坊主が上で信徒が下)というくさった化石(笑)であった、宗門(坊主)と別れたことで、創価学会は世界中に開けた世界宗教へと脱皮することができたのです。(ある謝)


ようは、「宗教的権威」「寺信仰」「日本独特の長いものには巻かれろ」という、「黒き鎖」を断ち切り、末法において「信仰は自主・自立『戦ってなんぼ』という信仰者団体」という立場を打ち立てることができたのだ。
「2度と繰り返してはならない」という師のいを現実に実践し、魂の自由を勝ち取ったのです。


その上、「僧俗和合」という麗しき関係を僧侶の側が否定したから、第一次宗門問題当時おきていたことが表面化した。
まあ、おかげで、鎖に繋がれていた、陰の歴史を学ぶことができたのです。
んー、私達は、いろいろな味で恵まれているのだといます。


第二次宗門問題は、あの時、ある弟子が覚醒した歴史です。
そうです「学び語り継いでいかなくては」ならない歴史なのです。
この場所は、ネットではありますが、あるメンバーと共に「破邪顕正の剣」を掲げ、創価の正義を宣揚していきたい。


評論家ではなく、実践者でありたい。
だれがではなく「私がやります」というのが弟子の道だ。
役職を頂いたということは、自分の責任範囲は、自分に責任がある。
あきらめることなく、粘り強く実践していきます。(決)


今日は、「ここまで!」ありがとうございました。

高知・南国圏勤行会1

金剛の信に金剛の幸福

高知県は、「新港」の建設など、世界へと開いた壮大な発展への道を歩んでいる。二十一世紀には、全国からうらやまれるような繁栄の地となるに違いない。また、そう期待している。
 ところで、釈尊教では二百五十戒とか五百戒とか、たくさんの厳しい戒律があった。しかし現在は「末法無戒」と言って、そうした戒はまったく必要ない。
 ただ一つの戒は、御本尊を持(たも)ちきることであり(受持即持戒)、ここに「金剛宝器戒」の本義がある。
 「金剛宝器戒」については、これまでも論じたし、本日はくわしい話は略させていただくが、金剛とはダイヤモンドのことである。ダイヤは、どんなものにも壊されない。ダイヤはあらゆる宝石より輝いている。宝石の王者である。
 そのように、この「信」という「金剛宝器戒」を持った人は、何ものにも侵されない。“金剛の幸福”の当体になる。だれが不幸にしようとしてもできない、何が起ころうとも崩れない“幸福のダイヤモンド”を、生命の“核”として固め、いだく人生となる。まさに“金剛の生命”である。
 だからこそ、「信」も金剛の強さが必要である。一生涯、御本尊から離れず、一生涯、広布の王道から離れない。その信に一切の戒も功徳も含まれている。
 幸福へのあらゆる知恵と、勝利へのあらゆる兵法が収まっている。大きな飛行機で青空を飛ぶように、王者のごとく、悠々と、人生を遊戯(ゆうげ)していける。生々世々、常楽我浄のすばらしい境涯を楽しんでいけるのである。これ以上の生命の軌道は無い。
 幸福になるための信仰である。楽しみきっていくための人生である。
 日々の勤行や活動も“やらなければがあたる”などと追いつめられ、しみながらやったのでは、自分がつまらない。喜びがなければ、真の功徳じられない。たとえば“食事”も義務的にイヤイヤ食べるのと、楽しくおいしく食べるのとでは大違いである。
 勤行は、いわば生命に“栄養”をたくわえる“食事”ともいえる。ゆえに、勇んで行っていくほうが、自分が得である。
 もちろん、時には体調が悪かったり、時間がとれず、勤行が完全にはできない時があるかもしれない。しかし、それを理由に、家族の中でお互いを責めたり、攻撃しあう必要はない。
 大切なのは「持続」である。長い目で、また「自分が全部、一家を照らしてみせる」とのおおらかな気持ちで、あたたかく励まし合いながら“幸福へのリズム”を築いていくのが聡明な信仰者である。この点、とくに一家の“太陽”であるご婦人の皆さまの賢明なリードを、壮年部を代表してお願いしたい。

1990-11-26 高知・南国圏勤行会 南国文化会館 全集75巻 341頁】


100年に一度といわれる「不況」の大波が押し寄せつつある。
家庭訪問先で話していると、地元の某大手メーカーも前年生産比で70%も落ち込んでいるとのこと。
「今年はどうなるんやろ」と不安がっていました。
「私達の信はピンチがチャンスです」と話し、週1回一緒に唱題会をすることになりました。


うちも弱小企なので、真剣に祈り挑戦していかないとあぶない!
「なんとかなる」ではなく「なんとかしていくぞ」と決
法は真剣勝負だ!
“金剛の生命”を輝かせ、幸福へのあらゆる知恵と、勝利へのあらゆる兵法を駆使し、日々努力を重ねていきたい。
仕事も信も「一念」を定め、強く祈り実践していくぞ!

池田先生と香川

1959年(S34年)「黎明の年」
2/3   池田青年室長、秋谷男子部長ら一行、四国指導へ。男女青年部指導会


1962年(S37年)「勝利の年」
3/21   四国本部(四国婦人会館)の落成入式に出席。
6/2    四国本部幹部会屋島競技場)に出席。各部代表3万人が集う。


1963年(S38年)「教学の年」
2/22   四国3総支部合同幹部会(高市民会館)に出席。


1964年(S39年)「団結の年」
1/16   四国第一本部の地区部長会。


1966年(S41年)「黎明の年」
1/30   四国地区部長・地区坦らと記撮影。
4/16   香川の班長・班坦らと記撮影。


1967年(S42年)「躍進の年」
9/1   四国本部幹部会。「楽土建設の革命児たれ」の指針示す。
     小豆島を初訪問。


1968年(S43年)「栄光の年」
6/4   四国文化会館起工式(福岡町) 四国総合本部幹部会に出席。
10/15  四国芸術祭(高市民会館四国5大学会の結成式に出席


1969年(S44年)「建設の年」
10/15   第5回四国幹部会(県立体育館)に出席。
      四国文化会館の開館式に出席。


1971年(S46年)「文化の年」
2/7   「’71四国文化祭」(高市民会館)に出席。
2/8    四国未来会の結成式に出席。


1972年(S47年)「地域の年」
6/18   香川県の代表6000人と記撮影(屋島体育館)


1973年(S48年)「教学の年」
11/12   高市へ。


1978年(S53年)「教学の年」
1/20   第2回香川県婦人部総会(四国研修道場)に出席。
     「貧女の一灯を福運の一灯に」と、永遠の指針を。今日の福運グループ発展の原点に。
     第220回1本部幹部会に出席。
1/22   香川県の勤行会、指導会に出席。
7/24   野外研修会(四国研修道場)に出席。
7/25   四国支部結成22周年記四国幹部会に出席。
     四国の歌「我らの天地」(山本伸一作詞)が発表。
7/26   小豆島会館を初訪問。会館落成10周年記勤行会に出席。
12/12   四国研修道場へ。
12/13  「友の会」のメンバーと勤行会、記撮影に出席。


1979年(S54年)「人材育成の年」
4/24   会長勇退


1980年(S55年)「地域の年」
1/14   四国・神奈川交流幹部会(神奈川文化会館


1981年(S56年)「青年の年」
11/10   「香川の日」記勤行会(四国研修道場)に出席。
      「深き信で人間の大樹に」の指針を。
11/11   新四国文化会館の建設予定地を視察。
      四国研修道場、池田講堂での自由勤行会に相次いで出席。
11/14   四国文化会館四国婦人会館を訪問。近隣の同志らと記撮影。
     「紅の歌」が完成。
11/15   記撮影。


1985年(S60年)「開拓の年」
4/17   高市へ。
4/18   香川県支部長会(四国研修道場)に出席。


1993年(H5年)「創価ルネサンス・勝利の年」
11/30   四国文化会館へ。
12/1    栗林公園・高駅・香東川へ。
12/2    四国研修道へ。
      第3回四国総会(四国文化会館)に出席。
12/4    高空港を離陸。


地元の先輩から、資料をいただきました。
このあと平成6年にも来県されています。

特別寄稿 次代を開くキーワード4


―― 四国新聞 ――

新たな知恵の光の道を

 万葉の昔より「見れども飽かぬ」と詠われてきた憧れの香川の天地を、私が初めて訪問したのは、50年前の2であった。郷土を愛する誠実な若人たちと「青春は修行の時代。大いに学ぼう」と語りあったことも懐かしい。先日も、その友人たちが元気な近況を伝えてくれた。嬉しかった。
 四国の友は信義に篤(あつ)い。この半世紀、どんな時も楽を分かち合ってきた友情は、私の宝である。
 今、瀬戸内海は、海苔収穫の季節である。東京湾の海苔づくりの家に育った私には、真冬の早の凍える海での労作が偲(しの)ばれてならない。
 東かがわ市の私の知るご夫妻は、仲間と協力して「浮き流し」という新しい技法に挑んだ。水深が深くて波浪の荒い水域でも、支柱を立てる代わりに、ブイを浮かべて養殖を可能にしたものだ。
 海苔が艶を失う色落ちなど、試練は絶えないという。だが、研究や工夫を重ねて、乗り越えてきた。「境は打開するためにある」と、寒風にも笑顔で胸を張る。


「志国」の誉れ高きと技の継承
 三豊市仁尾町で生産される「袋かけみかん」も、有だ。一つ一つ丹精こめた手作によって、ひときわ甘美(かんび)な黄金の果実がもたらされている。
 「外には造化(自然)を師とす」という中国の格言がある。「知識」はコンピューターからでも得られる。しかし、それを生き生きと活用しゆく「知恵」は、大自然を師のように大切にして学んでいくに育まれるのではないだろうか。そしてまた、人間と人間の真剣な生命の打ち合いの中でこそ、創造と調和の「知恵」が啓発される。
 日本の文化の華「讃岐漆芸」が、二百年の歳を超えて、始祖・玉(たま)楮(かじ)象(ぞう)谷(こく)以来の伝統美を守り、発展させ、磨き抜かれてきた根底にも、「師匠と弟子」「先輩と後輩」の絶え間なき薫陶(くんとう)がある。
 高い香川県漆芸研究所では、巨匠の方々が個人教授に近い形で、自らの技を惜しみなく伝える。未来の巨匠たちは、それを受け継ぎ、多彩な漆芸術を創造していくのだ。この研究所で指導に当たられた、人間国宝の音(おと)丸耕堂(まるこうどう)先生は語られた。
 「深ければ深いほど、しければしいほどですね、それに携わる者はファイトが湧(わ)きます」
 四国には「師国」すなわち「師の国」ともいうべき、一流のと技の継承が冴(さ)え渡っている。


「連帯の文化」を創る新しき四国の道
人であれ、団体であれ、文明であれ、傲慢になって学ぶことをやめ、孤立した時から、衰退が始まる。惰や油断を排して学び続け、他者とを結び合っていくところが、勝ち栄えていける。
 私の友人である、アルゼンチンの人権の闘志・エスキベル博士は語っておられた。
 「人間が今、挑戦への『勇気』を持てば、未来の『収穫』は自ずと到来する。その挑戦とは、積極的に異なるものと結びつき、『連帯の文化』という新しい道を探求することである」と。
 50年前の2、私は香川から土讃線に乗って高知へ向かった。それは、明治時代、若き指導者・大久保褜之丞(おおくぼじんのじょう)が、物産に恵まれた各県を結ぶために切り開いた「四国新道」をたどりながらの旅でもあった。百年先の人々の連帯を見つめて、厳然と道を創ってくれた讃岐の先人の魂は、今も私たちの胸に熱く迫る。
 激動の世こそ、新たな知恵の結合によって、新たなイノベーション(革新)を呼び起こす時だ。
 「四国は、歴史を変える逸材が躍り出る不議な宝土だ。四国の人物と胸襟を開いて友情を結べ!」
 きょう211日、百九周年の生誕の日を迎えた、わが師・戸田城聖先生の遺訓のひとつであった。

【2009-2-11 四国新聞



サイズが合わなくて、ちと見にくいですが、新聞UPしました。


今、東かがわ市で海苔養殖に取り組んでいる同志は一軒だけで、同級生のメンバーです(HN船守弥三郎夫妻)
毎年、年末にあみはりの手伝いに行っています。
海の荒れる日が少ないと、4〜5日で終わるのですが実際は天候に左右されるため、1週間ちょいぐらいはかかります。


「浮き流し」とは、必要個所にブイを浮かべ、ロープで四角に枠を組みます。
上から見ると、競泳プールみたいなじ。
幅1メートルぐらいで、長さ25メートルぐらい(目測なので実際はどうなんでしょう?)の網に海苔の種がついているものを、張っていくわけです。
組んだロープに海苔網を、手で結んでいく大変な仕事。早く張ると、早く刈り取れるので網張りは「戦争」です。
私が手伝う仕事は、網を結ぶのに合わせながら、船を引っ張ることです。
いうなれば、1日「綱引き」をするわけです。
翌日には、全身が筋肉痛……。年だし><


2001年以来、海に栄養がなくずっと色落ちがひどく赤字続きだったそうですが、今年はひさびさにいいじだそうです。
豊作(っていうのかな?)を祈る。がんばれ!

第一回四国総会4

万事「一人」から出発、「一人」を育てよ


 さて法華経「普門品」では信仰する「一人」がいれば、周辺の人々も皆、救われる場面が説かれている。(開結622頁)
 たとえば、大海へと航海に出かけた船が漂流し、鬼の国に着いたとする。高知もかつて海のが多かったが――。その中で一人、観世音のを唱える人がいれば、今でいえば妙法を唱える人が、全員が救われると説いている。
 「一人」が大切である。その「一人」が、船という“運命共同体”を幸福へと引っ張っていく。
家族、会社、地域などでも同様である。
 「一人」が唱える妙法の力用は、それほど大きい。太陽がひとたび昇れば、いっぺんに周囲を照らすようなものである。「一人」の成が眷属をも救っていく。
 ゆえに決して、家族の誰かが信仰していないことがあっても、そのことで、いたずらにしむ必要はない。また、周囲の人々の幸福と入信を願い祈るとして、“自分一人あれば、皆を良い方向に引っ張っていける”との確信が大事である。
 それが法華経の教えである。そこから安と信頼の波も広がっていく。そこに長い目で見た時の広宣の深き土壌もできていく。人をしめるような、かたくなで偏狭な行き方は、法の真の精神ではない。
 「普門品」には、こんなシーンもある。商人の一団が重宝を持って旅し、盗賊に遇う。しかし、この隊商(キャラバン)のなかに一人の信仰者がいた。彼は「なにも恐れることはない」と皆を激励し、その「無畏(恐れる事なし)」のに打たれた商人たちは勇気を得て、彼の確信に同ずる。そこから全員がを免れる。(開結624頁)
 人数のみではない。「一人」の強き信の人を育てることである。そこに根本、根っこがある。そこから一切が開花していく。

1990-11-27 第一回四国総会 高知文化会館 全集75巻 337頁】


「一人」が大切。
家族が未入会のメンバーは結構いますよね。
馬鹿な幹部だと「あなたの信が足りないからよ」的な無いことを言う。
折伏になると未入会家族を捜しまくって「あなたの信で決まるのよ」と……。
よく聞く話です。
未入会家族を折伏していく戦いも、大事な戦いではある。
んが、「その気」にさせずに、戦いだけを押し付けていくのは違いますね。
こういうのが多すぎるとうなぁ。


これは、どんな戦いにも言えることですが、「勇気の出る激励」「ちょっとした一言」が大事だ。
「一対一の対話」で勇気の波、信頼の波を広げていきたい。