愛する四国に 学会精神は永遠なり


 「30年前のきょう、四国の皆さんがいらしたんですね」
創価学会の創立80周年の幕が明けた1月14日の晴れた、妻がしみじみと語った。
 「ああ、そうだったね……」
 一生涯、忘れ得ぬ、あの宝の日は、歳月を超えて瞬時に蘇ってくる。
 1980年(昭和55年)の1月14日。その日も晴れわたっていた。前日の雪が一切を清め、大気はどこまでも澄んでいた。
 私と妻は待った。横浜港を一望する神奈川文化会館で、四国の友を待った。陽光に煌めく大海原を見つめながら、真正の同志の来たるを待っていた。
 ついに、白亜の客船が現れた。香川県高知県愛媛県徳島県の宝友一千人を乗せた「さんふらわあ7」号である。
 私はコートを纏いながら、周囲の皆に呼びかけた。
 「さあ、四国の同志を桟橋へ迎えに行こう! 皆で大歓迎しよう」

 この年は、創価学会の創立50周年であった。本来であるならば、全会をあげて慶祝する晴れやかな一年である。しかし、わが学会は太陽が沈んだように漆黒の闇に覆われていた。
 狂気じみた第一次宗門事件の嵐が、吹きすさんでいいたからである。広宣流布に勇み励む創価の師弟を妬み、その絆を断ち切らんとする謀略の嵐は、日本列島の各地で荒れ狂った。その中にあって、けなげな四国の友は歯を食いしばり、いずこにもまして、勇敢に忍耐強く戦い抜いてくれていた。
 そして年頭より決然と、反転攻勢の航海へ、勇んで打って出てくれたのである。
 一人一人に、どれほどの強く深い決意が秘められていたことか。
 船酔いがきつい友もいたであろう。交通費の工面も、並大抵でなかったに違いない。
 家族や同志を送り出してくださった留守の方々の真心も尊く光っていた。
 異体同心の無量の題目に包まれての航路であったことも、忘れがたい。四国の全同志の信心を携えて、「さんふらわあ7」号は海を越えてきたのだ。
 法華経の薬王品には、こう厳命されている。
 「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃茶等に其の便りを得しむること無かれ」(法華経601頁)
 釈尊、そして、日蓮大聖人の仰せの通り、広宣流布への命脈を断じて流れ通わせていかねばならぬ。そのためには、仏意仏勅創価学会を守り抜く以外にないではないか!
 創価の師弟のほかに、世界広布を遂行できる力が、一体どこにあるのか!
 この四国の賢者たちの正義の怒りに燃えた使命旅によって、闇夜に希望の日が昇った。
 私は何よりも嬉しかった。四国は、わが師・戸田城聖先生がこよなく愛し、いつも心にかけておられた天地である。1955年(昭和30年)の1月、先生と御一緒に高知県を訪問したことも、黄金の歴史だ。私にとって「四国」は「師国(師の国)」でもある。
 先生に私は心で御報告申し上げた。
 「学会は四国に厳然です。四国の勇舞の友さえいれば、創価は永遠に不滅です」

 御聖訓には、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらんずれば・かなふべからず」(御書1448頁)と記されている。
 生老病死の苦悩の渦巻く現実社会の大海を、いかなる波濤も恐れず、悠然と勝ち越えていく究極の力が「信心」である。
 四国と神奈川の交流幹部会の席上、私は強く語った。
 「われわれは福運の船出だ!平和の船出だよ!」
 窓の外には、港に王者の風格でたたずむ「せんふらわあ7」号が見えた。
 思えば、日本の文明開化の夜明けを創った、この由緒ある横浜港は、四方に開かれた四国の先人たちとも縁が深い。
 高知生まれのジョン万次郎は、横浜港を経由して、再びアメリカへ渡り、日米の友好に尽力した。
 愛媛出身の言論人・末広鉄腸は横浜港から渡米する船上、フィリピンの独立の英雄ホセ・リサール博士と熱き友情を結んだ。
 だが戦時中、横浜から大海原を駆け巡った豪華客船も空母等に改造され、やがて太平洋の海底へ沈んだ。それは、悲しみの船出であったと言わざるを得ない。
 私たちの「さんふらわあ7」号は、師弟共戦の「歓喜の船出」であった。
 1月の第一陣に続き、5月の15日には徳島の友一千人が、さらに20日には愛媛の友一千人が、「さんふらわあ7」号で、二陣、三陣と勇躍、駆けつけてくださった。
 それは、学会が最も大変な時に、「師弟の絆は、何ものにも絶対に壊されない!」と満天下に宣言する信念の闘争であった。
 その意義は、時とともに、いやまして光彩を放っている。
 この三千人の勇者を、私は「三千太平洋グループ」と命名させていただいた。一人も残らず、私の生命の最も奥深くから永遠に離れることはない。そこに連なっておられる一家眷族が、生々世々、最極の常楽我浄幸福航路を勝ち進まれゆくことを、私と妻は祈りに祈り抜いている。

 「栄誉ある、立派な生涯」とは、いかなる人生であるか。
 香川県が生んだ大教育者で、「人間革命」の理念を提唱された南原繁博士の答えは明快であった。
 「人間として誠実で、勤勉、そうしていつでも正義を味方にする人になるということです。これは人間の至宝であります」と。
 わが敬愛する四国の麗しき山河には、「誠実」で「勤勉」で、そして毅然と「正義」を貫く、創価の至宝の父母たちが奮闘されている。あの街でもこの村でも、その信頼と友好の目覚ましい広がりは、一千万の同志の模範と仰がれるところだ。
 四国は「詩国(詩の国)」である。
 「香川」も「高知」も「愛媛」も「徳島」も、おとぎの国のように、なんと美しく詩情豊かな名前であるか。
 御書には「名は必ず体にいたる徳あり」(御書1174頁)と説かれている。
 まさしく、愛する詩国に「香しい人材の川」が滔々と流れ、「高き知恵の大光」が赫々と輝きわたる。そして「慈愛の幸福女王」が舞い、「福徳爛漫の宝土」が栄ゆかれることを、私は心にいつも念じている。

 讃岐漆芸の「中興の祖」と謳われる磯井如真先生は言われた。
 「だれかが新しく始めたことも、創造の歴史的を重ねれば伝統になる:
 至言である。万般にわたり、創造的な継承によって、偉大な歴史が織り成される。
 2001年(平成13年)の11月18日、すなわち21世紀最初の学会創立記念日には、勇気と希望の大波が寄せる来るように、四国の青年部一千八百名の代表が、私のいる八王子の牧口記念会館へ意気高く集ってくれた
 会場には、「三千太平洋グループ」の友もいた。そのお子さん方も大勢いた。
 私は後継の友に、広布史に燦然と輝く「さんふらわあ7」号について語った。四国が全世界に示しきった「師弟共戦の志」を若き生命に刻みつけてほしかったからである。
 そして、万感の思いを込めて呼びかけた。
四国を頼む!」
「師弟共戦の志」が燃え立つ限り、「志国(志の国)」は盤石である。偉大な父母が築き上げた広布の城は盤石である。それは、全世界の創価の友に限りない勇気と希望を贈る光の大城なのだ。
何より嬉しいことに、今、わが師国青年部と私の前進また前進の歴史は、いよいよ誇り高く、新たな栄光の絵巻を織り成している。

「志の国」の愛する英雄の君よ!
「正義の四国」の太陽の貴女よ!
学会創立百周年へ、さあ出発だ!
共に、共々に「正義の帆」を高く高く揚げるのだ!
創価万代の大船は、威風も堂々、波を蹴って進む。永遠不滅の大勝利へ!
愛する四国から「紅の歌」を轟かせながら!


2010年5月3日  「師弟勝利の大航海」三十周年を記念して――


【書籍「池田先生四国」巻頭言より】


広宣流布とは何か?


戸田先生は言われていた「世界から悲惨の二字を無くしていくのだ!」


今風にいえば「差別のない、弱者が守られる世界」「強者の理論で不幸になる庶民を出さない世界」ではないかと思う。


今日本は、未曾有の災害により「多くの庶民が悲嘆」を抱え、悲しみを心の奥にしまい込み「避生活」を余儀なくされている。
その現実を横目に見ながら、政治の世界では災害前と変わらない「愚かな権力闘争」が続いている。


公明党国家議員に期待したい。
「悲惨の二字」をなくす政治力を!


私たちも「悲惨の二字」を無くしていく、哲学を対話運動で広めていきたい。
特に四国のメンバーは、これだけ師匠に期待されていることを忘れてはならない。
自分のできることをコツコツでいいと思う、実践していきましょう。


最後に――忘れてました^^;
学会員ブロガーの皆さま「内部粘着厨」はスルー対応で……。

「紅の歌」誕生30周年記念 四国総会

メッセージ
 寒風に胸を張って、大四国の記念総会、おめでとうございます。
 私の心も皆さんと一緒に、懐かしい四国池田文化会館にあります。音楽隊、青年部合唱団の皆さんも、熱演、ありがとう!
我らの「紅の歌」の歌声を轟かせ、この四国から正義の反転攻勢を開始してより三十年。今再び、四国の天地から世界広布の新時代を告げる紅のが明けました。新たな四国の夜明け、創価の夜明けです。

――中略――

 大聖人は大の中、迎えた新年、南条時光に仰せになられました。
「故・上野殿をこそ・色ある男と人は申せしに・其の御子なれば紅の濃きよしをつたえ給えるか、藍よりも青く・水よりも冷たき冰(こおり)かなと・ありがたし・ありがたし」と。すなわち紅に燃えるような偉大な親の信心の志を、南条時光が厳然と受け継いでいいることを讃えておられるのであります。私には四国家族の信心の継承と重なって迫ります。
 学会が一番大変な時に、どこよりも真剣な四国の父母(ちちはは)たちは、荒波を乗り越えて、師弟の勝利の旗を翻(ひるがえ)してくれた。私は永遠に忘れない。
 どうか、この紅の志国の志をいやまして明々と燃えあがらせながら、香川、愛媛、徳島、そして高知の四県の大同団結で、新時代の常勝のを晴れ晴れと開いていってください。四国から歴史は変わります。
 ともあれ「陰徳あれば陽報あり」です。「冥の照覧」は絶対です。
 さあ大切な大切な同志を心から励まし、皆の新しい躍進の力を引き出し、大功徳の花を咲き薫らせながら、仲良く朗らかに勝ち進もう!
 正義の四国、万歳! 魁の師弟の魂光る人材山脈よ、永遠なれ!
  二〇一一年一月十六日 学会本部にて      池田大作
 愛する大四国の全同志の御健康と幸福勝利の一年を祈りつつ。合掌

「嫁が音楽隊に感動した」と内容をこと細かく教えてくれました。

私……?
参加予定だったのですが、先週末から寝込んじまいまして参加できませんでした(残念)
正月疲れですね――飲みすぎ(苦笑)
油断です(猛省)

メッセージを拝見し元気になりました。
師の励ましのエールを読むと涙腺が全開になります。
紅の志国の志を燃えあがらせ、あきらめることなく前進していきたい。

師弟を結んだ洋上の道

本年「宇高航路」開設から100周年

 高松港岡山県宇野港を結ぶ「宇高航路」が、本年で100周年を迎えた。かつては、四国と本州の「メーン・ストリート」として栄え、連絡船やフェリーが旅情を誘った。池田会長(当時)は、幾度も「宇高航路」で海を渡り、四国広布の礎が築かれていった。


 1962年(昭和37年)3月21日、水曜日。午後0時45分、池田会長一行を乗せた国鉄(当時)の宇高連絡船「鷲羽丸」は高松港に着岸した。
 暖かな祝日であった。池田会長は、観光客でにぎわう港から、四国本部(高松市福岡町)へと車を走らせた。
 就任後、初の正式な香川訪問であった。
 午後1時半、四国全県の代表6000人が参加し、四国本部の落成式が行われた。
 1階の礼拝室が約80畳、2階の広間が33畳。今からすれば小規模の法城だが、会長は大発展の四国の時代を展望して語った。
 「四国は、まず団結することだ。イスやテーブルだって4本の脚が支え合って立っている。四国も四つの県の同志が、しっかり団結し、お互いに目標を定めて進んでいくことです。
 私も、また、四国にまいります。ともに力を合わせて、四国の新しい時代をつくろう」
 落成式の前日、四国は全国一の弘経を成し遂げ、四国の友は、完勝に胸を張り、会長を迎えた。



連絡船「鷲羽丸」。総トン数1514.47トン。定員は約1700人。1967年9月就航。宇高連絡船は瀬戸大橋が誕生した88年にその役割を終えた。



 「宇高航路」は約1時間の航海である。運行コースは、昭和30年代から、今もほとんど変わっていない。



宇高航路には東航路と西航路がある。東航路は直島水道を北上。西航路は葛島水道を南下。約20キロの距離を1時間で航海する。


船上の池田会長は、どのように過ごしていたのだろうか。同乗者の記憶をもとに記したい。



1968年(昭和43年)6月4日。
 薄暮高松港の乗り場から、池田会長一行は、宇高国道フェリーに乗船した。四国指導の工程を終え、中国方面へと向かう。船は旋回し、瀬戸内海を滑り出した。
 この日の会長は、たった半日で、関西、四国、中国を移動するという過密スケジュールであった。数時間前の四国本部幹部会では、約40分のスピーチをしている。
 バスで7時間をかけて集った徳島県東祖谷山村(現・三好市)の11人の同志がいた。
 「歩いて帰ってでも、感激を伝えたい」と満面の笑顔で語っていた。
 音楽隊の指揮者は、高知から夜行列車で参加した。列車の中、5人の隊員とともに楽譜を仕上げた。会長は「音楽隊は私の弟」と最大に称賛した。


1968年 船中で未来を展望


宇野港行きのフェリーに同行した四国の代表は、安全上の配慮から、一般客室の上階の客室を用意していた。
 池田会長は、気さくに皆に声をかけていく。自然と対話の輪ができあがった。
 窓の向こうには、屋島が広がっていた。会長は言った。
 「あそこで、研修会をやろう」
 「四国中に学会の会館を建てよう」
 遠大な構想を語った。当時の四国会館は既存の建物を改装したものばかりであった。
 しかし、構想の通りに、半世紀を待たず、四国には40を超える新会館が建設された。屋島近郊の庵治町には四国研修道場が作られ、世界中の識者が訪れている。
 夜空に、上限の月が光をたたえていた。青年部の代表に、月や地球の公転周期を訪ねながら、限りない成長に期待を寄せる会長。
 「青年部を大事に」
 「皆が仲良く、団結することだ。四国の同志のために頑張るんだぞ」
 やがてフェリーは宇野港に吸いこまれていく。会長は、最後まで休まなかった。



この当時のフェリーが、なんという船だったのか。国道フェリー株式会社の高松本社を訪ねたが、すでに当時の運行表は失われていた。当時、運航していた6隻のうち、上階の客室を有していた船は、「こうち丸」「どうご丸」「南国とさ丸」の3隻。このいずれかに会長は乗船していたはずである。
 船上の激励から42年。池田会長と四国の友を包んでいた空と海の青さは、今も変わらない。

【2010-7-30付 聖教新聞 四国方面版より】

愛する四国に 学会精神は永遠なり


「30年前のきょう、四国の皆さまがいらしたんですね」
創価学会の80周年の幕が開けた1月14日の晴れた、妻がしみじみと語った。
 「ああ、そうだったね……」
 一生涯、忘れ得ぬ、あの宝の日は、歳月を超えて瞬時に蘇ってくる。
 1980年(昭和55年)の1月14日。その日も晴れわたっていた。前日の雪が一切を清め、大気はどこまでも澄んでいた。
 私と妻は待った。横浜港を一望する神奈川文化会館で、四国の友を待った。陽光に煌めく大海原を見つめながら、真正の同志の来るを待っていた。
 ついに、白亜の客船が現れた。香川県高知県愛媛県徳島県の宝友一千人をのせた「さんふらわあ7」号である。
 私はコートを纏いながら、周囲の皆に呼びかけた。
 「さあ、四国の同志を桟橋へ迎えに行こう! 皆で大歓迎しよう!」



 この年は、創価学会の創立50周年であった。本来ならば、全会をあげて慶祝する晴れやかな1年である。しかし、わが学会は太陽が沈んだように漆黒の闇に覆われていた。
 狂気じみた第一次宗門事件の嵐が、吹きすさんでいたからである。広宣流布に勇み励む創価の師弟を妬み、その絆を断ち切らんとする謀略の嵐は、日本列島の各地で荒れ狂った。その中にあって、けなげな四国の友は歯を食いしばり、いずこにもまして、勇敢に忍耐強く闘い抜いてくれていた。
 そして年頭より決然と、反転攻勢の航海へ、勇んで打って出てくれたのである。
 一人一人に、どれほどの強く深い決意が秘められていたことか。
 船酔いがきつい友もいたであろう。交通費の工面も、並大抵でなかったに違いない。
 家族や同志を送り出してくださった留守の方々の真心も尊く光っていた。
 異体同心の無量の題目に包まれての航路であったことも、忘れがたい。四国の全同志の信心を携えて「さんふらわあ7」号は海を越えてきたのだ。
 法華経の薬王品には、こう厳命されている。
 「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得しむること無かれ」(法華経601頁)
 釈尊、そして、日蓮大聖人の仰せの通り、広宣流布への命脈を断じて流れ通わせていかねばならぬ。そのためには仏意仏勅創価学会を守り抜く以外にないではないか!
 創価の師弟のほかに、世界広布を遂行できる力が、一体どこにあるのか!
 この四国の賢者たちの正義の怒りに燃えた使命旅によって、闇夜に希望の日が昇った。
 私は何よりも嬉しかった。四国は、わが師・戸田城聖先生がこよなく愛し、いつも心にかけておられた天地である。1955年(昭和30年)の1月、先生と御一緒に高知県を訪問したことも、黄金の歴史だ。私にとって「四国」は「師国(師の国)」でもある。
 先生に、私は心で報告申し上げた。
 「学会精神は四国に厳然です。四国の勇舞の友さえいれば、創価は永遠に不滅です」



 御聖訓には、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(御書1448頁)と記されている。
 生老病死の苦悩の渦巻く現代社会の大海を、いかなる波濤も恐れず、悠然と勝ち越えていく究極の力が「信心」である。
 四国と神奈川の交流幹部会の席上、私は強く語った。
 「われわれは福運の船出だ! 平和の船出だよ!」
 窓の外には、港に王者の風格でたたずむ「さんふらわあ7」号が見えた。
 思えば、日本の文明開化の夜明けを創った。この由緒ある横浜港は、四方に開かれた四国の先人たちとも縁が深い。
 高知生まれのジョン万次郎は、横浜港を経由して、再びアメリカへ渡り、日米の友好に尽力した。
 愛媛出身の言論人・末広鉄腸は横浜港から渡米する船上、フィリピンの独立の英雄ホセ・リサール博士と熱き友情を結んだ。
 私たちの「さんふらわあ7」号は、師弟共戦の「歓喜の船出」であった。
 1月の第一陣に続き、5月の17日には徳島の友一千人が、さらに20日には愛媛の友一千人が、「さんふらわあ7」号で、二陣、三陣と勇躍、駆けつけてくださった。
 それは、学会が最も大変な時に、「師弟の絆は、何ものにも絶対に壊されない!」と満天下に宣言する信念の闘争であった。
 その意義は、時とともにいやまして光彩を放っている。
 この三千人の勇者を、私は「三千太平洋グループ」と命名させていただいた。一人も残らず、私の生命の最も奥深くから永遠に離れることはない。そこに連なっておられる一家眷属が生々世々、最極の常楽我浄幸福航路を勝ち進まれゆくことを、私と妻は祈りに祈り抜いている。



 「栄誉ある、立派な生涯」とは、いかなる人生であるか。
  香川県が生んだ大教育者で、「人間革命」の理念を提唱された南原繁博士の答えは明快であった。
 「人間として誠実で、勤勉、そうしていつでも正義に味方する人になるということです。誠実ということ、これは人間の至宝であります」と。
 わが敬愛する四国の麗しき山河には、「誠実」で「勤勉」で、そして毅然と「正義」を貫く、創価の至宝の父母たちが奮闘されている。あの街でも、この村でも、その信頼と友好の目覚ましい広がりは、一千万の同志の模範と仰がれるところだ。
 四国は「詩国(詩の国)」である。
 「香川」も「高知」も「愛媛」も「徳島」も、おとぎの国のように、なんと美しく詩情豊かな名前であるか。
 御書には「名は必ず体にいたる徳あり」(御書1274頁)と説かれている。
 まさしく、愛する詩国に
「香しい人材の川」が滔々と流れ、「高き知恵の大光」が赫々と輝きわたる。そして「慈愛の幸福女王」が舞い、「福徳爛漫の宝土」が栄えゆかれることを、私はいつも心に念じている。



 讃岐漆芸の「中興の祖」と謳われる磯井如真先生は言われた。
 「だれかが新しく始めたことも、創造の歴史を重ねれば伝統になる」
 至言である。万般にわたり、創造的な継承によって、偉大な伝統が織り成される。
 2001年(平成13年)の11月18日、すなわち21世紀最初の学会創立記念日には、勇気と希望の大波が寄せ来るように、四国の青年部一千八百人の代表が、私のいる八王子の東京牧口記念会館へ意気高く集ってくれた
 会場には、「三千太平洋グループ」の友もいた。そのお子さん方も大勢いた。
 私は後継の友に、広布史に燦然と輝く「さんふらわあ7」号について語った。四国が全世界に示し切った「師弟共戦の志」を、若き生命に刻みつけてほしかったからである。
 そして万感を込めて呼びかけた。
 「四国を頼む!」
 「師弟共戦の志」が燃え立つ限り、「志国(志の国)」は盤石である。偉大な父母が築き上げた広布の城は盤石である。それは、全世界の創価の友に限りない勇気と希望を贈る光の大城なのだ。
 何より嬉しいことに、今、わが四国青年部と私の前進また前進の歴史は、いよいよ誇り高く、新たな栄光の絵巻を織り成している。



 「志の国」の愛する英雄の君よ!
 「正義の四国」の太陽の貴女よ!
学会創立百周年へ、さあ出発だ!
共に、共々に「正義の帆」を高く高く揚げるのだ!
創価万代の大船は、威風も堂々、波を蹴って進む。永遠不滅の大勝利へ!
愛する四国から「紅の歌」を轟かせながら!


2010年5月3日 「師弟勝利の大航海」30周年を記念して――
池田先生四国 巻頭言】

池田先生と四国



四国の大先輩が「さんふらわあ7」号で神奈川へはせ参じてより30年。
「師弟勝利の大航海」30周年記念「池田先生四国」との注文限定発売の書籍が今日届いた。


600円だ。安い(笑)
今日は時間がとれなくてパラパラとめくっただけ、これから読みたいと思う。
しっかり学び、地元広布の先輩たちに続いていきたい。

明年は、「四国・神奈川交流幹部会」から30周年!

真の師弟の劇

 それは、1980年(昭和55年)の年頭だった。
 四国の同志1000人が、誉会長のいる神奈川文化会館を目指して出航した。前年4の辞任以来、誉会長は自由な行動を阻まれていた。
 真冬の荒波を乗り越えて、師のもとに晴れ晴れと集った友。
 当時を述懐し、誉会長は呼びかける。
 「いずこであろうが、いかなる怒涛があろうが、広宣流布のためなら、その主戦場へ、真っ先に駆けつける! 正義の言論戦で、勝利の旗を必ず打ち立てる! 大四国には、その闘争の精神が、時代とともに燃え上っている」
 30年前の53日。誉会長は「共戦」と認め、その脇書きに「真実の同志あるを信じつつ」と記した。
 どこまでも弟子を信じ抜く師匠。まっすぐに師を求め、行動する弟子。四国の友は「真の師弟の劇は、四国が切り開いた!」との誇りに燃える。
 さあ、「四方に開かれた四国」から「対話の大橋」を! 「友情の懸け橋」を!!
 友の熱誠は、広布第2幕の魁と光る。

四国の同志へ 誉会長が贈る

 「毎日、忙しい。だが自分に、与えられた課題に、真正面から取り組むことだ。
 なれば、義ある仕事になる。しくとも、実に楽しい」(昭和24年63日)


 「学会だけは断じて崩させてはならぬ。
 強き青年が、公平に、清純に、学会を護りゆくことだ」(昭和34年710日)

 「広宣流布のため、全生命を打ち込んで、活躍してゆくことだ。 観論、索のみでは、何にもならぬ」
 「唯、実践、実行が、生命なのだ」(昭和26年129日)
【四方に開かれた四国から 2009-8-1付 聖教新聞より】


師のもとへはせ参じた先輩諸氏のごとく、師を求め切る!いさぎ良き信を貫いていきたい。
今は、逆風の真っただ中……。


んが、悔いのない歴史を刻んでいきたい。
幹部の押しつけて来る「数」の打ち出しに、翻弄されてはダメです!
自身の広宣流布の歴史に、金字を打ち立てていくことが大事なのです。
お互い、悔いなき歴史を刻んでいきましょう!

新時代第27回本部幹部会より

20数回に及んだ「紅の歌」の推敲

 青年部の愛唱歌の一つに、「紅の歌」がある。ここで、皆で歌うことを提案したいが、どうだろうか。
 〈創価グロリア吹奏楽団の演奏で、男子部の参加者を中に「紅の歌」の1番を合唱した〉
 素晴らしい歌をありがとう。
 先日も、ある有な社会的指導者がこの「紅の歌」を聞き、“すごい歌だ。銘を受けた”“これまで学会のことをさまざまな角度から知ってきたが、この歌一つで、また、ほれぼれしました。”と語っておられたそうだ。
 「紅の歌」が生まれたのは、28年前(1981年=昭和56年)の秋である。
 歌があるところは、発展する。歌を歌うところは、行進する勢いも強い。行動も早い。戦いに勝っていける。
 明るく力強い歌のない世界は、いつか衰退していくものであろう。
 ともあれ、「紅の歌」の誕生は、私が「桂冠詩人」の称号を拝受した年でもある。
 〈1981年、世界詩人会議を主催する世界芸術文化アカデミーから、SGI会長に「桂冠詩人」の称号が贈られた〉
 この年の11、満の美しい夜であった。今でも覚えている。
 私は、香川・庵治の研修道場にいた。
そこへ、青年部の代表が集まってくれた
 皆さんは、庵治の研修道場をご存じだろうか。
 〈四国からの参加者が「ハイ!」と応え、謝のを述べた〉
 四国の皆さんに、よろしくお伝えください。
 あの夜、私は青年部の代表と懇談した。彼らは“先生、新しい歌を作りたいのです!”と、徹夜で作成した歌詞の案を携えていた。
 四国は“詩国”――詩人の国である。言葉は、知恵があれば、いくらでも出てくるものだ。
 彼らと語りながら、「ああ、学会の青年はいいな!」とったことを、今も忘れない。
 それは、邪悪の輩に対する反転攻勢の闘魂を燃やして、作ってくれた歌詞だった。
 徹夜明けで、目を赤くした彼らを前に、歌詞を一読して、「あまり、上手ではない」などとは、決して言わなかった。
 私は「わかった。君たちのために手伝うよ」と、一緒に推敲に取りかかった。
 激励行の各地で、数日間にわたり、四国を離れる直前まで、20数回に及ぶ真剣勝負の推敲を重ねた。
 その末に、現在、あらゆる天地で歌われている「紅の歌」ができ上がったのである。
 もともとのタイトルは「黎明の歌」だった。それを「紅の歌」に改めた。
 冒頭の一行も、原案では「ああ黎明の時来る」であった。この“黎明”という言葉は、頻繁に使われてきた。そこで、最終的には「ああ紅の明けて」と変えた。
 ちょっとした、細かいところが大事である。たとえば、会合での「指導」の内容であれ、人に語りかける「」であれ、何であれ、ちょっとしたづかいによって、よりよいものに変わる。
 人間は、たいていの場合、そんなに極端な違いや、力量の差があるわけではない。しかし、「」一つで、その人が変わっていく場合がある。「」こそ、不議なるものだ。

「毀誉褒貶の人降し」

 また、「紅の歌」の原案には、「毀誉褒貶の人あるも」とあった。この歌詞のままだと、毀誉褒貶――世間の評判に左右される人々を、一面、肯定してしまうことになる。
 そこで、「毀誉褒貶の人降し」と強めて、そうした存在と戦い、諌めていくを、歌詞に託した。
 一語一語、一行一行を検討しながら、皆に“戦う魂”を伝えていった。
 それは、大変な作である。もちろん、謝は出ない。逆に、皆に食事をふるまってあげながら、推敲を進めた。
 作曲においても、「ああ紅の……」と私が口ずさんだ旋律を、そばにいた四国音楽隊の友が五線譜に書き留め、再現してくださった。その箇所を出だしとして、曲ができ上がっていった。
 まさに「紅の歌」は、私と青年部が師弟不二で創った“正義の歌”であり、ゆえに、歌に不滅の命が宿っていると確信している。

【新時代第27回本部幹部会 第33回SGI総会 全国青年部幹部会・壮年部幹部会 2009-3-9付 聖教新聞


ちと、UPするのが遅くなりましたが……(笑)


「庵治の研修道場を知ってる人」との問いかけに、私はわず「ハイ!」と元気一杯に手を上げてしまった(笑)他にも何人かいました。


で、昨日王会で夕直の着任だったので、ポツポツ咲き始めた四国研修道場の桜をパチリ。



携帯で撮ったうえに、街灯の明かりのみなので、ちと、暗いかな。