師弟を結んだ洋上の道

本年「宇高航路」開設から100周年

 高松港岡山県宇野港を結ぶ「宇高航路」が、本年で100周年を迎えた。かつては、四国と本州の「メーン・ストリート」として栄え、連絡船やフェリーが旅情を誘った。池田会長(当時)は、幾度も「宇高航路」で海を渡り、四国広布の礎が築かれていった。


 1962年(昭和37年)3月21日、水曜日。午後0時45分、池田会長一行を乗せた国鉄(当時)の宇高連絡船「鷲羽丸」は高松港に着岸した。
 暖かな祝日であった。池田会長は、観光客でにぎわう港から、四国本部(高松市福岡町)へと車を走らせた。
 就任後、初の正式な香川訪問であった。
 午後1時半、四国全県の代表6000人が参加し、四国本部の落成式が行われた。
 1階の礼拝室が約80畳、2階の広間が33畳。今からすれば小規模の法城だが、会長は大発展の四国の時代を展望して語った。
 「四国は、まず団結することだ。イスやテーブルだって4本の脚が支え合って立っている。四国も四つの県の同志が、しっかり団結し、お互いに目標を定めて進んでいくことです。
 私も、また、四国にまいります。ともに力を合わせて、四国の新しい時代をつくろう」
 落成式の前日、四国は全国一の弘経を成し遂げ、四国の友は、完勝に胸を張り、会長を迎えた。



連絡船「鷲羽丸」。総トン数1514.47トン。定員は約1700人。1967年9月就航。宇高連絡船は瀬戸大橋が誕生した88年にその役割を終えた。



 「宇高航路」は約1時間の航海である。運行コースは、昭和30年代から、今もほとんど変わっていない。



宇高航路には東航路と西航路がある。東航路は直島水道を北上。西航路は葛島水道を南下。約20キロの距離を1時間で航海する。


船上の池田会長は、どのように過ごしていたのだろうか。同乗者の記憶をもとに記したい。



1968年(昭和43年)6月4日。
 薄暮高松港の乗り場から、池田会長一行は、宇高国道フェリーに乗船した。四国指導の工程を終え、中国方面へと向かう。船は旋回し、瀬戸内海を滑り出した。
 この日の会長は、たった半日で、関西、四国、中国を移動するという過密スケジュールであった。数時間前の四国本部幹部会では、約40分のスピーチをしている。
 バスで7時間をかけて集った徳島県東祖谷山村(現・三好市)の11人の同志がいた。
 「歩いて帰ってでも、感激を伝えたい」と満面の笑顔で語っていた。
 音楽隊の指揮者は、高知から夜行列車で参加した。列車の中、5人の隊員とともに楽譜を仕上げた。会長は「音楽隊は私の弟」と最大に称賛した。


1968年 船中で未来を展望


宇野港行きのフェリーに同行した四国の代表は、安全上の配慮から、一般客室の上階の客室を用意していた。
 池田会長は、気さくに皆に声をかけていく。自然と対話の輪ができあがった。
 窓の向こうには、屋島が広がっていた。会長は言った。
 「あそこで、研修会をやろう」
 「四国中に学会の会館を建てよう」
 遠大な構想を語った。当時の四国会館は既存の建物を改装したものばかりであった。
 しかし、構想の通りに、半世紀を待たず、四国には40を超える新会館が建設された。屋島近郊の庵治町には四国研修道場が作られ、世界中の識者が訪れている。
 夜空に、上限の月が光をたたえていた。青年部の代表に、月や地球の公転周期を訪ねながら、限りない成長に期待を寄せる会長。
 「青年部を大事に」
 「皆が仲良く、団結することだ。四国の同志のために頑張るんだぞ」
 やがてフェリーは宇野港に吸いこまれていく。会長は、最後まで休まなかった。



この当時のフェリーが、なんという船だったのか。国道フェリー株式会社の高松本社を訪ねたが、すでに当時の運行表は失われていた。当時、運航していた6隻のうち、上階の客室を有していた船は、「こうち丸」「どうご丸」「南国とさ丸」の3隻。このいずれかに会長は乗船していたはずである。
 船上の激励から42年。池田会長と四国の友を包んでいた空と海の青さは、今も変わらない。

【2010-7-30付 聖教新聞 四国方面版より】