新時代第27回本部幹部会より
20数回に及んだ「紅の歌」の推敲
青年部の愛唱歌の一つに、「紅の歌」がある。ここで、皆で歌うことを提案したいが、どうだろうか。
〈創価グロリア吹奏楽団の演奏で、男子部の参加者を中心に「紅の歌」の1番を合唱した〉
素晴らしい歌をありがとう。
先日も、ある有名な社会的指導者がこの「紅の歌」を聞き、“すごい歌だ。感銘を受けた”“これまで学会のことをさまざまな角度から知ってきたが、この歌一つで、また、ほれぼれしました。”と語っておられたそうだ。
「紅の歌」が生まれたのは、28年前(1981年=昭和56年)の秋である。
歌があるところは、発展する。歌を歌うところは、行進する勢いも強い。行動も早い。戦いに勝っていける。
明るく力強い歌声のない世界は、いつか衰退していくものであろう。
ともあれ、「紅の歌」の誕生は、私が「桂冠詩人」の称号を拝受した年でもある。
〈1981年、世界詩人会議を主催する世界芸術文化アカデミーから、SGI会長に「桂冠詩人」の称号が贈られた〉
この年の11月、満月の美しい夜であった。今でも覚えている。
私は、香川・庵治の研修道場にいた。
そこへ、青年部の代表が集まってくれた。
皆さんは、庵治の研修道場をご存じだろうか。
〈四国からの参加者が「ハイ!」と応え、感謝の意を述べた〉
四国の皆さんに、よろしくお伝えください。
あの夜、私は青年部の代表と懇談した。彼らは“先生、新しい歌を作りたいのです!”と、徹夜で作成した歌詞の案を携えていた。
四国は“詩国”――詩人の国である。言葉は、知恵があれば、いくらでも出てくるものだ。
彼らと語りながら、「ああ、学会の青年はいいな!」と思ったことを、今も忘れない。
それは、邪悪の輩に対する反転攻勢の闘魂を燃やして、作ってくれた歌詞だった。
徹夜明けで、目を赤くした彼らを前に、歌詞を一読して、「あまり、上手ではない」などとは、決して言わなかった。
私は「わかった。君たちのために手伝うよ」と、一緒に推敲に取りかかった。
激励行の各地で、数日間にわたり、四国を離れる直前まで、20数回に及ぶ真剣勝負の推敲を重ねた。
その末に、現在、あらゆる天地で歌われている「紅の歌」ができ上がったのである。
もともとのタイトルは「黎明の歌」だった。それを「紅の歌」に改めた。
冒頭の一行も、原案では「ああ黎明の時来る」であった。この“黎明”という言葉は、頻繁に使われてきた。そこで、最終的には「ああ紅の朝明けて」と変えた。
ちょっとした、細かいところが大事である。たとえば、会合での「指導」の内容であれ、人に語りかける「声」であれ、何であれ、ちょっとした心づかいによって、よりよいものに変わる。
人間は、たいていの場合、そんなに極端な違いや、力量の差があるわけではない。しかし、「心」一つで、その人が変わっていく場合がある。「心」こそ、不思議なるものだ。
「毀誉褒貶の人降し」
また、「紅の歌」の原案には、「毀誉褒貶の人あるも」とあった。この歌詞のままだと、毀誉褒貶――世間の評判に左右される人々を、一面、肯定してしまうことになる。
そこで、「毀誉褒貶の人降し」と強めて、そうした存在と戦い、諌めていく心を、歌詞に託した。
一語一語、一行一行を検討しながら、皆に“戦う魂”を伝えていった。
それは、大変な作業である。もちろん、月謝は出ない。逆に、皆に食事をふるまってあげながら、推敲を進めた。
作曲においても、「ああ紅の……」と私が口ずさんだ旋律を、そばにいた四国音楽隊の友が五線譜に書き留め、再現してくださった。その箇所を出だしとして、曲ができ上がっていった。
まさに「紅の歌」は、私と青年部が師弟不二の心で創った“正義の歌”であり、ゆえに、歌に不滅の命が宿っていると確信している。
ちと、UPするのが遅くなりましたが……(苦笑)
「庵治の研修道場を知ってる人」との問いかけに、私は思わず「ハイ!」と元気一杯に手を上げてしまった(笑)他にも何人かいました。
で、昨日王城会で夕直の着任だったので、ポツポツ咲き始めた四国研修道場の桜をパチリ。
携帯で撮ったうえに、街灯の明かりのみなので、ちと、暗いかな。