清潔な信心貫け


妙法蓮華経の大宇宙のリズムというものは、すべて厳しい因果の理法以外の何ものでもありません。
したがって「陰徳あれば陽報あり」との御金言を忘れず、たとえひのき舞台で派手な喝采を浴びるような活動をしなくとも、御本尊に連なる広宣流布の大目的のために戦えば、どんなに陰であろうと、そこには必ず大功徳が生ずる、すなわち陽報があることを確信していただきたい。
法には、不公平はありません。どんな境遇にあっても、御本尊に連なった戦い、広宣流布のために自分自身に悔いのない、真剣な、まじめな戦いであるならば、福運に満ち、功徳に満つるのであります。その証拠は厳然と功徳となって現れます。どうか、この大聖人の御金言を忘れないで、勇躍歓喜して前進していこうではありませんか。


私が申し上げたいのは、第一番目に、あくまでも信は、一時的なものでなく一生を通じて見ていくべきであるということであります。正しい信と誤った低級な宗教にとらわれた信との相違は、一生涯で見ていけば、必ず現証の上で勝負が決まるという自覚を持っていただきたい。
第二番目には、清潔な信であっていただきたいということであります。学会組織を利用したり、そしてまた破和合僧の行動をとって多くの同志に迷惑をかけ、学会を傷つけることは不潔であり、の働きであります。そこには絶対に功徳は生じません。あくまでも洗練された指導で、学会を清らかに永続させていこうという、令法久住尊い精神、美しい情の上に立った信仰であっていただきたい。
こうした正信の人にこそ、御本尊の功徳を享受する資格があるのであります。それを組織を利用し要領よく立ち回って利を求めるような不純な人は、無言のうちに、学会を破壊し、濁らせていくの眷属であります。

1966‐12-11 高知・徳島幹部会 高知市・浄真寺】


法に不公平はない。解っているようないないような方もおられるのではないかとう。
出来上がった組織の上で戦っている私たちは、見えるところに目がいきがちだ。
会合等、皆の前で成果を語ることが、勲章になってしまっているようなところがある上、他人が戦った内容を自分のことのように語る人もたまに見かける。
が自分対御本尊であるのならば、そんなところにばかり目が行っているようではダメだ。どれだけ同志の声にアンテナを張り巡らせているかが大事なのではないだろうか。
今日、ある男子部メンバーが訪ねてきてくれた。大変な悩みと格闘中とのことであった。
自分の生命力を総動員し、全力で激励。
対話しながらった。組織の指導力が落ちてきているのかなと……。


創価王道」を見て自分のブログを始めた私だが、そこまで「創価王道」にひかれた背景には、組織の中での指導力が落ちてきていることがあるのだとい当たった。
現場の戦いに根ざした、指導が落ち込み、池田先生の言葉を利用した組織主義的な話が多くなったからだろうとう。
ある味、恵まれすぎているのではないだろうか。
しかしながら、純真な無私の行動に徹している学会員さんもいる。多くは、組織の末端で戦っている方たちだ。
同志が悩んでいると聞けば、すぐに駆けつけ唱題のうずが、広がっていく。
全然知らない同志のことであっても行動は同じだ。条件反射のように反応が広がっていく。


が精進行であるのならば、にごりのない清潔な信を貫いていきたい。
年齢に関係なく、日々成長の自分であるべし。