あの日あの時4「池田先生と四国」

師のもとへ船は急いだ


さんふらわあ7号

「太陽が燃えよる……ええ感じの船や」
ボストンバッグを手に、徳島県K・Yは巨大な船腹を見上げ、おもわずうなった。
水平線を突き破った日輪、オレンジ色の炎が、純白の船体にデザインされている。
大型バスや乗用車から降りる列、乗船する列ができている。
また一台、バスが着いた。「あの人らは、いったい、どこへ行っきょん?」日曜の昼下がり、防波堤で釣り糸を垂らす人々が珍しそうに見ている。
1980年(昭和55年)1月13日。香川県高松市朝日新町。
通称「F地区」。高松港内埋め立て地の西岸壁に、その船は全長124・93メートルの体躯を横たえていた。
関西汽船の大型客船「さんふらわあ7」である。
Kが乗船タラップへ向ったころ、F・Mはエントランスホールで、コートを脱いで一息ついた。
KとFは同じ組織である。地元の寺に悪坊主。学会と縁を切らなければ、無間地獄へ真っ逆さまだ、と罵倒した。
じっと耐え忍んできたが、前年の79年4月、第三代会長勇退の報。太陽が沈んだようで、目の前が真っ暗になった。
先生が動けないなら、先生のもとへ行こう!
乗船した四国の会員798人の心である。
午後1時5分。「さんふらわあ7」は静かに岸壁を離れた。
目的地は、神奈川・横浜港。そこに池田名誉会長がいる。


就航10分後の電話

「ええ、何ですって?中止?今、中止と言われたんですか?」
四国の幹部は、船舶電話の受話器を耳にきつく押し当てた。
港を離れて10分足らず。
相手は学会本部の幹部。諸般の事情により、と中止をうながしてきた。
冗談じゃない。船は小豆島を左舷に見て、播磨灘へ舵を切ったばかりである。
思わず受話器を持ち替えた。
そうだ!とっさに閃いた。
池田先生は、いかがですか。やめろとおっしゃっているんですか?」
つい声が大きくなる。乗務員が何ごとかと見ている。


前年12月、横浜市の神奈川文化会館四国の代表が意を決して執務室のドアをたたくと、名誉会長は身支度を調えていた。
朝の光が差し込む窓から、横浜の海が一望できる。
「お願いがあります」
ちらりと視界の左に大桟橋を一瞥(いちべつ)し、強い願いを伝えた。
「ここに四国の会員1000人が乗った船をつけたいと思います。先生、会っていただけないでしょうか」
「なに、ここに?」
会長勇退の直後。宗門を刺激してはいけない。学会本部は、ぴりぴりしていた。
師匠をストレートに求めることが許されなかった時代。
名誉会長は、四国の友の真情を喜んでくれた。
胸に込み上げるものを抑えながら頭を下げて退室する際、重ねて言ってくれた。
「待っているぞ!」

船舶電話で本部との交渉は続いている。悲壮感に震える四国幹部の声。
「お伝えください。出航いたします。神奈川文化にまいります」
いったん電話を切り、返事を待つ。5分10分……。じりじりと時が過ぎる。
しい静寂が破られ、東京からの回線がつながった。名誉会長の言葉が伝えられた。
「待っているよ!」
船は明石海峡へ波を切った。


名誉な仕事です

ホールや和室で県ごとに参加者指導会が開かれた。整った施設。「ホテル並じゃ」と満足げな声。
船内は7層。上からブリッジ、A・B・C・D・E・Fのデッキ。レストランとラウンジのあるCデッキを除き、客室が分散している。
揺れも少ない。阪神―沖縄航路の「若潮丸」を改造し、横揺れ軽減の水中翼を備えた最新鋭のクルーズ客船。航海速力は23ノット(時速約43キロ)


右舷に淡路島が迫る。午後三時、Eデッキ船尾側のホールで船上幹部会が始まった。
運営にあたっていた四国創価班のS・Mに、8日前の記憶がよぎる。
1月5日、全国創価班総会。終了後、学会本部で名誉会長にあいさつする機会に恵まれた。
四国です!神奈川文化会館へまいります」
書き物をしていた名誉会長がぱっと身を乗り出した。
「そうか!来るんだな。待っている!無事故で、いらっしゃい」

ブリッジ。船長のY・Hは、制服の袖に金の4本線。白手袋。きちんと髪に櫛が入っている。一つ気がかりなことがあった。
「あの方たちに、別のお部屋をご用意しなくても、よろしいのでしょうか」と四国の幹部に聞いてきた。
船には公明党の議員も乗っていた。
「けっこうです。学会には主婦も大工も教員も議員も、いろいろな人がいます。役割が違うだけで、平等な同志です。それが創価学会です」
うなずく船長。
「今回は、とても名誉な仕事です」


四国の留守番隊

紀伊水道から外洋に出た。
四国から遠ざかりながら、留守を託した家族を思う人もいた。
高知県のK・T。数日前、妻のSに告げた。
「おれは行くがや!」
「どこへ行くがや?」
「先生に会いにいくがよ!」
財布を開けると畳の上にバラバラと硬貨が転がり出た。お札は、ほんの何枚かしかない。
給料日は毎月17日。一番、しい時期である。
Sはすべてを飲み込んで、夫を送り出した。彼女は会長勇退の直後、師に長い手紙を書いている。
営林署に勤める夫は、転勤族。樹齢200〜300年の木を相手に働く。住まいは人里から遠い。夜の座談会に出るには、昼に家を出なければならない。そういう地域にも住んだ。
当時、住んでいた、足摺に近い県の最西端。そこにも同志がいた。組織があった。感謝と決意を手紙の文面に込めた。
“先生、私はここで頑張っています。先生も、どうか、どうか、お元気で”
愛知県のN・Kは国鉄マン。陸路はお手の物だが、からっきし船に弱い。松山市の自宅で妻のKが無事を祈っていた。
彼女は第3代会長就任式に参加している。青年会長の登場に胸が躍った。勇退しても私たちの師匠は池田先生。送り出した夫に、素晴らしい出会いがあることを信じていた。


「先生こんにちは」

「私、生まれも育ちも葛飾柴又……」
画面から寅さんの口上が聞こえてくる。Eデッキのホール。映画「男はつらいよ」が上映されていた。
名誉会長の配慮である。「ゆったり、楽しく来ればいいんだよ」と助言していた。
夕食、入浴時間の合間に、くつろいだ会員が腹を抱えている。
並行して、県別にアトラクションの打ち合わせ。横浜で神奈川の会員との交流するため余がない。
熊野灘の沖合いは波が高い。強い風にちぎられた雲の合間から時折、冴えた星が見える。


遠州灘の彼方に、白く美しい山裾が広がっていた。
明けて14日。香川県のT・Sの目に富士がまぶしい。つい数時間前まで男子部と垂れ幕を作っていた。横浜港到着時に下げるためである。
プールデッキで、「南国土佐を後にして」を練習するのは高知勢。女子部はラウンジで電子オルガンを囲んで合唱の練習を続けている。
三浦半島を回り、浦賀水道へ。
遠くに本牧ふ頭が見えてきた。正面にカモメの群れ、横浜港大桟橋。
垂れ幕を左舷に準備したT。逆側の着岸と知り、顔色を変えて右舷に走ったのは正午前である。
甲板から幕を下ろした。
「先生こんにちは」
白地に青の大文字が踊っている。
それに応えるように、大桟橋に「ようこそ神奈川へ」の横幕。四国の歌「我らの天地」の演奏も聞こえる。
突然、船のバランスが右にぐっと傾いた。右舷デッキに会員が殺到したからだ。みな大桟橋を見つめた。身を乗り出して手を振る。
黒いコート姿。
にっこりと笑っている。
会いたくて会いたくてたまらなかった池田名誉会長が両手を上げて、迎えてくれた。


注・文中の個人名はイニシャルに変えています。

【あの日あの時4 池田先生四国 2006-10-12付 聖教新聞