求道の心こそ師弟の絆

青年よ師のため広布のために立て!

の嵐を勝ち越え

 昭和56年(1981年)11四国の地で新たな歌が生まれた。――「紅の歌」。現在、学会の愛唱歌として、全国で親しまれている歌である。
 その歌詞には、「邪悪の徒には 栄えなし」「毀誉褒貶の 人降し」と、“正義の怒り”“攻撃精神”が謳われている。
 当時、学会は衣の権威をかざした坊主らによる策略に囲まれていた。大発展する学会への嫉妬に狂った連中が、けなげな学会員をしめていた。何より、師と弟子を分断しようと暗躍していた。
 しかし、いかなる権力も、魂の自由までは縛れない。民衆の怒りは爆発した。その発火点は、青年部であった。権威の鉄鎖を断ち切り、暗雲を突き抜けんとする叫びが轟いた。それこそが、「紅の歌」誕生の時だった。



 その前年の同55年1、師を求める四国の約1000人の友を乗せた1万トンの船が、神奈川に到着した。
四国の全同志のいをのせた「さんふらわあ7」号である。
 この時、池田誉会長は卑劣な裏切者と宗門から同志を守るため、一人、矢面に立ち、第3代会長を辞任していた。聖教新聞にも掲載されず、公式な会合にも出られなかった。
 しかし、創価の師弟の絆は、浅薄な退転者の像をはるかに超え、固く、強かった。師匠を求めるに、微塵もゆるぎは生じなかった。
 四国の純真なる同志は、障の嵐が吹きすさぶ中、荒れる冬の海を越え、誉会長の待つ横浜に馳せ参じた。
 この麗しき師弟の歴史を、誉会長は随筆に綴っている。
 「私は驚いた。香川、高知、愛媛、徳島の若々しき“正義の千人の勇士”が、熱くして深き決をもって、烈風と強風がふきすさぶなか、指揮をとってくれる師のもとへ、断じて守りに行くのだと、高港を発ったのである」
 「この勇敢なる弟子に、信じあえる同志に、私は、なんとしても応えねばならないと、涙に濡れた。ここから、私の四国への御返しの訪問の決は、一日一日、限りなく深まっていった」

反転攻勢の火ぶた


 「もう一度、私が指揮をとらせていただきます!」――香川・庵治の四国研修道場に、誉会長の師子吼が轟いた。
 横浜で出会った師弟のいは、翌56年に実現。
119日から、6泊7日にわたる歴史的な四国指導がスタートした。
 「私のを知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」――誉会長の反転攻勢の宣言。四国の同志は、決の炎を燃え上らせた。



 そして、「紅の歌」の作成が始まる。
 “新しい歌を作りたい!”――四国の青年部が徹夜で作り上げた歌詞の案を携え、誉会長のもとに参じた。
 そこには、師への謝のいがあった。新たな戦いへの決がみなぎっていた。不知の輩に対する反転攻勢の闘魂がほとばしっていた。
 新たなる「正義の歌」で、必ず「新しい正義」を、「新しい広布の突破口」を、切り開いてみせるという気概に満ちあふれていたのだ。
 刹那、弟子のが、師のと合致した。
 「よし、一緒に作ろう!」
 師弟の真剣なる推敲は20数回。四国の激励行の中、場所を変え、数日にわたって重ねられた。
 一語一語、一行一行を検討しながら、師は弟子に“戦う魂”を伝えた。
 作曲については、「ああ紅の……」と、誉会長が口ずさんだ旋律を、そばにいた四国音楽隊のメンバーが五線譜に起こした。
 そして、ついに「紅の歌」は産を上げる。師弟不二で創られた「正義の歌」の完成――反転攻勢の烽火があがった瞬間であった。

全力で師にぶつかれ


 これまでに、誉会長は師弟不二について語っている。「自分で決めた師弟の道である。ゆえに、戸田先生にぶつかっていき、戸田先生と命でつながっていくことが、私にとっては最も大事なことであった」「そこから、厳然と『師弟不二の道』が開かれていったのである」と。
 「紅の歌」に師弟不二の魂が脈動しているのは、弟子が、“師のため、広布のため”との一念で、全力で誉会長にぶつかった末に生まれた歌からであろう。一番しい時に弟子が立ち上がり、師弟の絆は本物になった。故に、30年近く経った今日でも、色あせず、むしろ、時とともに輝きを増しているのだ。



 先、「3・16」を目前に控えた青年部幹部会の席上、誉会長は青年部の代表に「紅の歌」の合唱を提案した。そして合唱後、誉会長は、同歌作成の歴史を自ら語り残した――。
 かつて、弟子が師を求め抜き、決起した。その姿に、師は「時」をじた。
そして、師弟は一体不二となって“世界の創価”を見事に築き上げた。
 広布第2幕の今、世界一の師匠と同じ時に生まれ合わせた誉れある青年部よ!
 今こそ、師のために立ち上がり、まっすぐに師のを求めゆく時だ。広宣流布の主体者として、師と共に、新たなる突破口を開きゆけ!

【突破口を開け! 第3回「紅の歌」誕生 2009-4-15付 創価新報