全国代表協議会


「前進」と言えば、若き日の文京支部での戦いを思い出す。
当時、文京支部折伏成果は、全国で最下位クラスであった。支部長は女性の田中都伎子さんだった。
田中さんから支部の窮状を訴えられた戸田先生は、こう言われた。
「僕の懐刀を送ることにしよう」
私が文京支部長代理の任命を受けたのは、昭和28年(1953年)の4月であった。
私は最初の班長会で申し上げた。
「人生は前進です。限りない前進です。英雄ナポレオンの合言葉は『前進』でした。私たちは、広宣流布の英雄です。破邪顕正の英雄です。
わが文京支部は、『前進』の魂を断固と燃やそう!『前進』を合言葉としよう!」
そこから文京支部の大前進が始まった。
私は具体的な目標を掲げ、各地区を駆けた。一人ひとりと誠実の対話を重ねていった。
そして、この年の12月には、文京は第一級の支部へと発展を遂げたのである。

【全国代表協議会 2006.2.28付 聖教新聞


我が家にあった、昭和35年(1960年)4月の大白蓮華に田中さんの記事が載っていた。
以下抜粋。先生とは戸田先生のこと。


「先生は私が支部長になるとき おれが応援してやるからしっかりやれといわれましたが、一度も座談会にいらしていただけず折伏もして下さいません。とうとう今月はビリになりました。先生何とかお願いいたします」と申し上げました。
先生は頭をかかえて大笑いをされていました。
先生から「おれは応援にいくわけにはいかないから、替わりに私の懐刀を文京にやる。池田という男だ。大はおれのここいらへんにいつもいる男だ」といわれて、先生の胸あたりをたたかれました。
そして「大はおそろしい力のある男だ。お前が今日まで見てきた男と同じように考えたら大間違いだぞ。お前も私と共にやる気なら、大のいうとおりに良く聞いて、真剣に戦ってみろ」といわれました。


文書だけ読むと、ユーモラスな部分がありますが、本当に真剣に戸田先生にお願いしたことがうかがえます。
戸田先生が、どんなに池田先生のことを信頼されていたのかも。

池田先生は、師の構想を実現すべく「連戦連勝の勝利の歴史」を刻まれていったのです。


昭和31年(1956年)、大阪では、「まさかが実現」とマスコミが驚嘆するほどの大勝利の金字塔を打ち立てた。
当時、大阪よりも東京のほうが、はるかに情勢はよかった。
「勝てる」と多くの人が思っていた東京が負けてしまった。そして、劣勢だった大阪が勝利した―皆、本当に驚いた。
関西は、私が手づくりで築いた「常勝の天地」である。だからこそ私は関西を信頼する。関西を大事にする。

【同 全国代表協議会】


男子部時代には、何回も関西に行きたいと思った。(笑)
“常勝関西”の響きにあこがれていた。
しかしながら、今いる場所で結果を出していくことが大事なのだ。場所や環境を嘆くより、今いる場所で屹立した「広宣流布」の主体者として戦っていきたい。
それが「池田門下生」だ。

先生の戦いを学ぶと、あまりにも偉大すぎて、自分がちっぽけに感じてしまうことがある……。
昔、先輩によく言われた。
「力が無いのであれば、力をつけよ!」との激が、頭の中を駆け巡る。


このプログは、自分自身の元気の元にもなっている。
こうして、駄文ではあるが打ち込んでいると、お世話になった先輩方のことを思い出すからだ。創価学会のおかげで出会えた方たちだ。私の言葉なんぞは、ほとんど先輩の受け売りのような気がする。
謙虚さを忘れず、報恩の思いで戦っていきたい。日々「前進」だ!