第一回四国青年部総会1

中国・広州大学「名誉教授」称号授与式

「拡大の四国」から21世紀の暁鐘が


はるばると海を越えて、中国から、そしてまた日本の四国から、本日は、ようこそ、お越しくださいました。
私は万感こめて、「大中国、万歳!」「大四国、万歳!」と申し上げたいのであります。
また、四国青年部総会、おめでとう!
遠く高知県足摺岬四万十川からも、香川県の小豆島からも、徳島県の日和佐海岸からも、愛媛県の南宇和からも、全四国のすみずみから、本当にご労さま!
創立の父・牧口常三郎先生が、日本の軍国主義と戦い、獄中で、安詳として殉教されたのは、「11月18日」の朝6時すぎの「日の出」の時でありました。(1944年〈昭和19年〉)
きょう、その時刻にはもう、寒風の中を、勇んで外に飛び出して、東京に向っていた方々も多くおられたと思います。
創価の「創立の志」は、青年から青年へ、元初の旭日のごとく、燃え伝わっております。
ともあれ、21世紀の新しい「紅の朝」は、わが誉れの四国青年部によって、ここに晴ればれと暁鐘が打ち鳴らされたと、私は信じるのであります。
日本中、世界中が、皆さんの勇姿を見つめています。
「求道と拡大の四国青年部、万歳!」と重ねて申し上げます。


さて、今日の大中国の「紅の朝」は、どこから明けていったか。それこそ、牧口先生も『人生地理学』の中で注目されていた、貴・広州(コワンチョウ)なのであります。
1911年(明治44年)「中国人民革命の魁」である孫文先生は、「革命の発祥の地」として広州を選びました。
「人民こそ皇帝」「民衆こそ帝王」という新しき時代の大建設を、栄光輝く広州の天地から始めたい――これが、孫文先生の熱望であったのであります。
孫文先生の精神を継承する魯迅先生も、ここ広州で、火を吐くような正義の言論を放ち、青年の育成に全魂を注ぎました。


2001-11-18 四国青年部総会 東京牧口記会館 池田大作全集93巻187頁】


昨日、11月14日「紅の歌」誕生25周年を迎えることができました。
5年前の四国青年部新世紀総会でのスピーチの冒頭部分です。(私の原点ですので、全文打ち込みたいと思います)
当時、私は香川戸田県・男子部長の任命を受けてから2ヶ月、分県で部1の折伏個人折伏1の結果を持って東京へ馳せ参じた。
実は、最後の折伏の報告は地元にのっこたメンバーの必死の戦いで、牧口記会館で受け取った。
皆の戦いに、感謝の涙があふれ出た。
しかし、報告に間に合わず、先生に部1の報告は届けることができなかったのである。――後日お手紙を書いたのだが――それだけは、今でも心残りである。
皆の戦いの結果を届けることができなかったのは、長である私の責任であるのだから……。


この日は、私の人生の原点とも言うべき日となった。
あれから5年、立場は壮年部となり、我が紅本部は、組織編成に伴い「香川戸田県」から「香川池田正義県」となった。
環境は大きく変わったが、私は何も変わらない。
あの日の誓いを胸に日々前進だ!
何ごとも絶対にあきらめない、断じて戦う!