原稿


壮年部になって、体験発表をしてくれないかと話があり、2005年(平成17年)の12月の座談会で発表したものです。このプログで公開しようかどうか、大変悩みました。
本気で「生涯不退転」の腹が決まるまでの、私的な部分です。
活動の方の事は、これからもここで紹介していく事があると思います。

つたない文書ですが、読んでみてください。


 私は、昭和41年1月3日生まれの40歳。牟礼町生まれの牟礼町育ちです。
小さい頃から勤行は強制。「勤行をしなければ飯抜き」という信心スパルタの家庭に育ちました。


そのためでしょうか、思春期といわれる十六歳のころには、親に反抗しまくる立派な学会嫌い少年になっていました。


 タバコを覚えたのは中2の時、高校は一年で中退。バイクを乗り回し、まともに働くこともなく、何回も警察のご厄介になり、ここでは発表できないようなことばかりしていました。

 カッコイイ硬派ではなく親不孝な軟派男で、昭和59年、18歳でできちゃった結婚、岡山で生活をはじめました。このときひつこい男子部の先輩に、引きずられ先生をお迎えしての文化祭に参加させていただきましたが、学会活動をすることもなく。生活に追われる日々でした。


 当時は、午後4時から午前1時まで居酒屋で働き、それから活魚の仕入れにドライバーとして高知・徳島へ走り、家にいるのは3時間ほどで寝るだけ。こんな家庭がうまくいくわけも無く、当時16歳の妻は、夜になると出かける様になり、まだ、ハイハイも出来ない娘を連れて仕事へ行く日々がつづきました。結局、19歳で子連れ離婚、昭和60年に香川に帰ってきました。


 悩みました。「自分の力で開けない事などない」と思っていた私が、初めて人生の壁にぶちあたったのです。もんもんとした日々が続く中で、たどりついたのは、我が家で行われていた座談会でした。ここには、喜びがありました。自己紹介をしただけで大拍手です。勤行・唱題の大切さを聞き、1日1時間の唱題、朝晩の勤行に挑戦しました。信心スパルタの家庭で育ったおかげで、勤行はバリバリできました。牙城会大学校に入ったのもこのときです。


 祈り始めると「自分は今まで、本当に親の信心で守られてきたんだ」と感謝の思いが込み上げてきました。男子部の先輩に連れられ、「折伏やらんと宿命転換も成長も無い。戦うんや!」という、本部長・部長の熱い激励を受け、かたっぱしから友人に法対話を始めました。なかなか決まりません。

 本部長に指導を受けに行くと「決まるまで帰ってくるな」と今では考えられないハードな叱咤激励です。

 
 対話が十五人目になった時、入決を取ることができました。本流の日も決まり、部長に報告「これからが大事やから、当日までしっかり祈っていかないかんよ」との言葉を聞き流し、舞い上がっていました。

 そんなときに、思ってもいなかったことが起こりました。昭和61年の4月。出勤途中に人身事故を起こしてしまったのです。

 相手の方は、自転車に乗ったお年よりの方でその日の夕方になくなられてしまいました。


 小さな娘の前で、途方にくれ呆然としている私を、激励し共に祈ってくれたのは、男子部の先輩でした。毎日、先生の指導や御書をひもとき共に唱題し、泣きながら「いま自分に負けたらいかん、お前は父親なんやから、すべてに挑戦して成長するときや」と激励をしてくれ、「おまえが奪ってしまった命なんやで」と追善の大切さや、先方に対する配慮まで細かく教えていただきました。


 そのおかげで、初めての折伏もやりきることができ、事故のことも無事示談が成立し、乗り越えることができたのです。

 私は、自分もこの学会の先輩のように悩んでいるメンバーに、勇気を与えることのできるような人間に成長していこうと決意しました。


 しかし、現実はそんなに簡単ではありませんでした。

 平成元年に再婚、二人子供もでき、信心も生活も順調にいっていると思っていたのですが、家庭を顧みず、仕事と学会活動に明け暮れていた私は、妻の変化に気づいてあげることができなかったのです。

 
 平成4年頃のことです。最初は、「近所の人が、我が家の悪口をうわさしている」というような、たわいのないものでした。「そんなことないやろ、気にしすぎや」という程度にしか思っていなかった私は、プライベートなことでもあり、人に知られたくは無いという恥ずかしさもあり、先輩に指導を受けに行くこともなく、「何とかなるやろう」と思っていました。
そのうち「買い物に行ったら、みんなが私の悪口を言っている」というようなことを言い出し、「隣の人に殺されるかもしれん、ほら今そこに隣の人がたっとるやん」と誰もいない窓を指差すようになり、ある日突然、家からいなくなってしまったのです。


 このときになってもまだ私は「わけわからんこと言いよるわ、どこにいっとんや」という程度にしか思っていませんでした。
しかし、次の日の朝に見つけ出したときには、私から見ても完全におかしいことがわかるほど錯乱していました。すぐに病院に直行し、その場で入院することになりました。


 このときになって初めて、指導を受けにいきました。自分自身の中にある「信心も生活もなかなかよくやっている」との慢心を打ち破る。「全部おまえが悪い」とのそれはそれは、きびしい叱咤激励の指導でした。1日2時間の唱題を始めました。


 退院してからは通院させることが戦いです。本人に自覚が無いですから大変です。調子の悪いときは、子供の送り迎え、朝夕の食事とお昼の弁当作りは私の役割となりました。当時男子部の部長をしていたのですが、学会活動もできるわけもなく、牙城会さえも着任できない日々が続きました。


 そんな時に、手を差し伸べてくれたのも男子部の先輩でした。悩んでは指導を受け。愚痴が出ては指導。行き詰まっては指導を受けに行きました。唱題も3時間を越えるようになりました。


 先生の書籍をむさぼるように読みながらの格闘の日々でした。この間、唱題も年間で200万偏をこえ、親友を折伏することができました。(余談ですが、今回共に男子部を卒しました。)


 しかし、生活のほうは、まるで出口の見えない、迷路のような状態が約3年間続きました。信心即生活なのに生活から逃げることばかり考えていました。


 平成6年の終わり頃から、妻が「あんたは、私を殺そうとしている。」と逃げ回るようになりました。私もいろいろなことで疲れ果てていたころでした。
仕事の事、家の事、病院の事のストレスのために、よく怒ったり怒鳴ったりしていた為に、今まで外に向いていたものが私に向けられたのだと思います。
 生活が成り立たたなくなりました。向こうの母親に相談し、別居することになってしまいました。


 妻も母親といるときは穏やかで何事も無いようでした。行き来はしていましたが、結局、半年ほど経った、平成7年の4月に、離婚することになりました。二人の子供ともそれ以来会っていません。


 2度目の離婚です。男子部の部長として、信心の実証を示せていない自分を振り返り、おちこんでしまった私は、指導を受けに行く気力も無く、あれほどお世話になった男子部の先輩をさけるようになっていました。活動の方も男子部の部の活動者会以外手がつかず。唱題だけは続けているような状態でした。一の定まっていない、抜け殻のような唱題でした。部長という役職だけで、学会につながっている。みんなの前では空元気。戦おうという、気概も失ってしまっていました。


 そんな時に、出会ったのが女子部であった、今の妻です。抜け殻のようになってしまっていた自分をいろいろ励ましてくれました。しばらくしてから、付き合うようになり、仕事の方も妻の父親が経営していた、害虫退治の会社を手伝うようになりました。当時、勤めていた学会員さんが経営されていた勤務先には、本当のことを言えず大変迷惑をかけてしまいました。


 「このまま流されていてはいけない。学会のおかげでいままでやってこれた。もう一度、原点に返ろう」との思いで、さけていた先輩の元へ、仕事と結婚について指導を受けに行きました。


 鬼のように厳しく叱られた後「今まで自分がしてきたことを全部背負って信仰を貫いていけ。お前は、わかっているはずや、命がけの信心で立ち上がれ!人生の師匠池田先生にお答えする事のできる男になれ!」と共に祈ってくれました。題目を唱えているうちに、それまであったことが、頭の中をグルグルと駆け巡っていきました。心の中でモヤモヤしていたものが無くなり、涙があふれてきて、ご本尊が見えませんでした。一がバシッと定まり、命の底から闘志がわいてきて「創価学会が無かったら今の自分は無い。よし、どんなことがあっても絶対に引かない。」と決意が固まりました。発心してからちょうど十年がたっていました。


 平成9年、できの悪い私のすべてを受け入れてくれた今の妻とも入籍することができ、商売をしていた関係で私が楠を名乗ることになりました。男子部の面倒を本当によく見てくれ、ぜんぜん頭が上がりません。部員さんに、問題が起こったときには、朝でも、真夜中でも小さい子供を抱えながら、共に走ってくれた事が何回もあります。


そのおかげで、何の心配もなく学会活動をすることができました。感謝、感謝です。


 また余談ですが、昨年6月に長女が出産し、39歳にしておじいちゃんとなりました。うちの子は、7歳と5歳にして、おじさんとおばさんです。


 その他にも、ここでは書き切れないぐらいいろいろな事がありましたが、振り返ってみると、創価学会のおかげで、信仰から離れてしまうことなく、世間的には最悪でしかない体験が役立ち、部員さんと共に悩み、同する事のできる自分に成長させてもらえる事ができたのです。男子部の後半の十年間は、報恩の思いで、徹して戦わせていただくことができました。私を鍛え上げてくれた学会に少しは恩返しができたと思っています。


 男子部時代は班長から総県主任部長まで、牙城会では方面警備長までもさせていただき、四国中を回らせていただきました。先生の入られた会合には五回も参加させていただき、金の思い出を刻むことができました。草創の方には及びもしませんが、個人折伏は五世帯。応援も含めると三十世帯を超える結果を勝ち取る事が出来ました。人間革命は50回以上、御書は3回読破しました。


 悲しい思い出もあります。自分が面倒を見ていた部員さんを病気や事故で、四人亡くしたことです。共に戦ったメンバーを入れると六人です。みんなの思いを一生涯受け継いでいかなくてはなりません。


 また、先生よりさまざまな、表彰や激励もいただきました。本部長の時には、広宣流布貢献賞、県男時代には、名誉ベルリン男子部長、金褒章、総県主任部長の時にはアメリ創価大学名誉学生証。


ここでは紹介しきれないほどです。


 中でも心に刻まれているのは、昨年、書籍の激励とともにいただいた、「楠剛君 正義の指導者たれ」との一文です。壮年部になって、先生よりおあずかりしたこの地元地域での、広宣流布の戦いが始まりました。特に明年は池田先生にとっての反転攻勢のノロシの歌である「紅の歌」が研修道場で誕生してより25周年の大切な節目です。「正義の指導者たれ」との先生の思いを地域で現実のものとしていかなければいけません。人生の総仕上げに入られた師匠に情けない姿を見せることは絶対にできません。


 先生は、「四十代という厳しい年代を生きる上で大切なことは自らの誓いを裏切らず、自己の立場、環境を嘆かず、前へ前へと進んでいく自分自身を、いかに築くかにある」と言われています。


 常に前進の気概で、男子部で学んだ、悩んだときには信心の指導を受ける。謙虚さを忘れず、報恩の思いで戦う。言うべきことはキチンと言う。一度起こした戦いは絶対にあきらめない。会員さんを徹して守っていく。自分がしてもらったことは、会員さんに恩返しをしていく。という自身の使命を実践し、「紅の歌」を高らかにうたいながら、創立80周年へ黄金の歴史を築いていきます。 

以上