「人間革命」12巻より 第5回
引き続き学んでいきたい。
憂愁の章より
「はァ、3月ですか……」
木田医師は、3月までに、戸田の体がそこまで回復するとはとても思えなかった。
このところ驚異的な回復ぶりを示しているとはいえ、重篤な肝硬変症である。木田は、医師としての経験から、まだまだながい静養が必要であると考えていた。
しかし、戸田は、確信に満ちた口調で言った。
「あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。まあ、見ていなさい。世の中には、不思議と思えることはいくらでもある。あの総本山の一帯は、溶岩層のために湧水はいたって少なかった。地質学者たちに頼んで何度も調査をしてもらったが、いつも、溶岩層の下に水脈はない、という結論だった。しかし、今後の登山者の増加を考えると、飲料水を確保するうえでも、水が出ないと困ることになる。そこで、私は祈りに祈りました。すると、どうですか。ボーリングをしたところ、わずか26メートルで水が湧き出してきた。不思議といえば不思議だがそれが仏法なんです。人間の体についても同じですよ。3月の総本山の記念式典は、かならず私が指揮を執る。それが私の最後の使命なんです。あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう」
戸田城聖は、若い前途有望な、人柄のよい木田が好きだった。彼は、取り立てて病状の変化がない時も、しばしば木田に電話をさせ、往診を頼んでいた。そして、病状が好転するにつれて、診察はいいからといって、現代医学の問題点などについて、矢継ぎ早に質問することが多くなっていた。木田医師の医学の知識を借りながら、生命について、思索をめぐらしていたのである。
戸田は木田医師に言うのだった。
「あまり診察もさせないのに、忙しいあなたをたびたび呼んで悪いな。それも、君と話をしていると面白くて、愉快になるからなんだよ」
戸田は、病との苦しい戦いの治療期間をも、いつか楽しいものに変えていた。
この日、木田医師が診察と語らいを終えて、階下に降りてみると、応接間には、すでに数人の幹部が、戸田への報告と指示を仰ぐために待機していた。木田医師は、会長もなかなか大変なんだな、これでは静養にはならないではないか、と案じながら戸田の自宅をあとにした。
戸田城聖の病状は、日を追って回復に向かっていった。
12月も下旬に入ったころには、食欲はほとんど以前と変わらなくなり、48もあった血清黄疸指数も20に減じ、腹水もほとんどなくなっていた。肝臓機能は蘇りつつあったといってよい。
この短時月での回復は、医師たちの予測をはるかに超えるものであり、奇跡的な回復ぶりといってよかった。木田医師も矢部医師も、ほっと安堵の息をつくとともに、戸田の生命力の強さに驚嘆せざるをえなかった。
そのころ、戸田のもとに統監部長の原山幸一から、学会の世帯数は集計の結果、ついに75万世帯を達成し、76万5千世帯になったことが報告されてきた。戸田は、まだ病の床に臥してはいたが、願業成就の満足に、法悦ともいうべき喜びが心の底から込み上げてくるのを覚えた。
思えば昭和26年5月3日、第二代会長就任の席で、戸田が彼の生涯の願業として75万世帯の達成を宣言した時には、会員は、いまだ3千余に過ぎなかった。それから、わずか6年と7か月で見事に彼の大願は成就したのである。
書き込んでいる本題とは少しはずれますが、現実に広宣流布の戦いを推し進めてきたのは「創価学会」です。
アンチや法華講がなんと言おうと、実際に日本全国、全世界に大聖人仏法を広めてきたのは「創価学会」なのです。
このあと、戸田先生は会員に3つの指針を発表されます。
一、 一家和楽の信心
二、 各人が幸福をつかむ信心
三、 難を乗り越える信心
本文中、池田先生は、
「参加者は、1つ1つの指針を胸にとどめはしたが、これが永遠の3指針として深く人々の心に刻まれるようになったのは、戸田の逝去後のことである。」
と綴られています。
ここにも弟子としての戦いが垣間見えます。
その後、池田先生は、
の二つを加えて下さり。創価学会の永遠の5指針となったのです。