一連の沖某がらみのことを復習


私のブログを見て下さっているメンバーは、すでに良く分かっていらっしゃるといますが、あえて書き込んでおきます。


沖某の人本迹なる邪義(己義)は、教学的には完全におかしなものです。


分かりにくいところは、「人が本」「自分自身が妙法の当体」等と主張していること。
これは正しい。
だからこそ、分かりにくいわけです。


そもそも、人と御本尊を本迹に建て分ける必要はありません。
そこが分からないと、紛動されてしまうわけです。
単純な主張だからこそ分かりにくいともいえます。


御本尊」を迹というのは、完全に「御本尊」軽視にあたります。
御書には「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、の御法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(御書1124頁)とあります。
「かきて候ぞ」とありますから「御本尊」のことですね。
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候」の「御本尊」を信じることが信の基本なのです。


あえて言えば「日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」ですから「大聖人様=御本尊=南無妙法蓮華経」と言っていいでしょう。


その前の部分には「但し御信によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし」(御書同頁)とあります。
ようは「鬼に・かなぼう」となる御信とは、「かきて候」の「御本尊」を信じてお題目を唱えていくことなのです。
当然、さまざまな事情で「御本尊」がなくても、「御本尊」を信じるという信仰があれば唱えるお題目に功徳があります。


ですから「御本尊」を軽んじてはなりません。
この単純なことを分かりにくくしているのが沖某教学です。


沖某の主張している「人が本」「自分自身が妙法の当体」等は正しい。
しかし「御本尊が迹」というのは「人>御本尊」となってしまい「御本尊」軽視の愚を犯してしまっていることになります。
単純な間違いなのですが、単純だからこそいまだに支持している愚か者がいる。
あえて沖某の主張に沿っていえば「人=御本尊」でなければ、「御本尊」軽視の謗法を犯してしまっていることになります。


ついでに沖某について書き込んでいる理由も明記しておきます。


一番の理由は、沖某も同じ創価学会員だからです。


私がWeb上で、沖某を知ったのは、某法華講員と対論したことが最初でした。
対論を見た時には「すごい人がいるなぁ」といこのブログでも紹介しました。
まあ、その後行われた「法華講との質問会」なるものは見ていません。個人的には法華講と「質問会」が成り立つとはえなかったからです(笑)


沖某は当時、変な主張はしていませんでした。
それに同じ創価学会員です。
私はその行動力に素直に尊敬のをいだきました。
他にも支持していたメンバーは多かったようにいます。


で、一連のことを振り返り「Web上では人の一面だけしか分からない」だからこそ、誰もがおかしな輩に引きずられてしまう可能がある(特に学会員どうしでです)。
だからこそ、創価学会のメンバーのおかしな主張に対しては、「おかしい」と書き込んでいくことが大事とい書き込んでいます。


今では、当時「沖某を支持していたメンバーが沖某を増長させた」と、沖某を支持していない特定のメンバーに対し「組織破壊」等と決めつけブログに書き散らしている愚か者まで出てきた。
Web上とはいえ「同志誹謗」の愚を犯している行為だと断言しておきたい。


愚かな主張に紛動されないようにするには、現実の現場で徹底して労することだ。
特定の偏ったものを除き、Web上にある問題は現実でも遭遇することがあるからです。
変な「教学」や「指導」を発言する方って結構いますから、現実で磨いていきたいものです。


これぐらいにして(笑)
さあ、今日も現場へ打って出よう!


追記しておきます。


沖某の――「御本尊を粗末にしてはいない」「粗末にしたことはありません」との書き込みを見ました。


ならばなぜ、「御本尊は迹」と主張するのでしょうね。
百歩譲って「人も本」「御本尊も本」とするのならばわかりますが……。
ようするに、沖某の主張していることは自分が言っていることと、矛盾しているわけです。


沖某語録を書き込んでおきます。
「自分を本とすると、御本尊は迹」「自分を本とすると大聖人は迹」


これらの主張は明らかに「謗法」です。
文字の上とはいえ、結果として「御本尊軽視」になっており「御本仏否定」になってしまっているからです。
いくら「御本尊を粗末にしたことはありません」といっても、書き込みで主張していることが、結果として「謗法」なわけですから許されるものではありません、大聖人仏法は厳しい。


御書には「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」(御書1056頁)とあります。
いまだに、惑わされている輩もいるようなので、追記しました。


まあ、沖某はわかりにくくすることを狙って(確信犯)、シンパを増やそうとしているのかもしれません(溜息)
「戦時中軍部権力に屈服し、学会員が退転していったのは教学力が無かったからだ」との戸田先生の指導を心肝に染めていきたい。
愚かな主張に惑わされてはダメです!