退転者の一人


央 忠邦著「池田大作論」(昭和44年発行)の中に、後に退転した竜年光(当時・総務・都会議員)が池田先生のことを語った内容が書かれていたので紹介したい。

昭和24年に池田先生戸田先生の「日本正学館」に入社して間もないころの話

 蒲田の一幹部の家で開かれた座談会一年先輩の竜年光は、初めて池田に話しかけたが、それも大先輩顔で、
 「これから、どういう気持ちで活動するつもりなのか」
とやった。
 池田の回答は、
 「いまに日本中、世界中をびっくりさせるような活動をしていく」
  というものだった。竜はどぎもを抜かれたと回している。


昭和28年ころ「2闘争(伝統の2)」の淵源。蒲田での戦いをふりかえっての話

 竜年光はいう。
 組長に自信と希望をもたせることに成功した。兵卒をして、大将軍たる気概をもたせた。つまり、最大限にその人の才能を生かすという力をもっていた。どうしようもないほどのちからだった。
 たとえば積極的に発言すると、それを認めて採用してくれる。いざ実践してみて、それがあぶなくなると、助けてくれる。そうすると、伸びのび活動ができるようになる。い出しても楽しかった。
 こんなこともあった。蒲田支部以前に、会長は青年部の班長を6かほどやったことがある。ある日、蒲田駅前でラーメンをおごってくれた。おごってくれたのはいいが、私に指導を始めた。
 「いまのような、もたもたした、時代を把握できない青年部の部隊活動ではだめだ。すべて部隊長が勉強しないからだ」という趣旨でした。もっともだとい、別れてからハッと気がつきました。
 「おれは部隊長じゃないか。彼は班長じゃないか」と。
 私は当時、4人の部隊長の最年長だったのです。

池田先生を称える内容ではありますが、よくよむと微妙に一念が違うといませんか?
新入会者と言っていいメンバーをつめてるし、後半部分では、後輩にラーメンをおごらせています。
ちと、あげあしとりぎみではありますが「私に指導を始めた」「4人の部隊長の最年長」との言い回し、指導された内容にピンと来ていない姿勢。
この微妙な一念の違いがやがて「退転」という姿をさらすことになったのでしょう。
まあ、他の資料を見ると、もともと「わがまま」で「目立ちたがり」という退転者に共通する格だったようですが……。


それでも、退転反逆するまでは、池田先生は指導激励を続けられていたことといます。
学会は暖かいところです。


「微妙な一念のずれ」なかなか自分では気がつかないものです。
だからこそ、組織があり同志がいることが必要なのだといます。
でも、イエスマンばかりの集団は、正常な組織とはいえません。


いずれにしても、信の世界は謙虚さがなくてはならない。「生涯青春」ですからいくつになっても学ぶ姿勢をわすれてはなりません。
学ぶ姿勢を放棄し「私が正しい」と頑なになってしまえば成長することはできません。
一人に「おかしいのではないですか?」と言われたら勘違いかもしれません。
2人目に同じことを言われても、たまたまということもあるでしょう。
しかし、3人・4人・5人……と指摘されるようであれば、自身の信心を総点検する必要があります。
教義に関することならば、なおさらです。

それができないと「悩乱」の坂を転げ落ちることになってしまいます。
誰とは言いませんがWeb上にいい例の人がいますね(笑)


気をつけていきたいものです……。

積極的に発言すると、それを認めて採用してくれる。いざ実践してみて、それがあぶなくなると、助けてくれる。そうすると、伸びのび活動ができるようになる。

後に退転してしまうような因を持っていた竜年光にして「楽しかった」と言わしめる戦い。
現場の声を聞き、共に前進していくことが大事なのですね。
現場第一主義で戦っていきたい。