一念随喜


 一念というのは、一というのは、非常に微妙なのです。ですから怨嫉すれば、いくら題目をあげても功徳はありません。みんなです。同じ御本尊様を拝んでいても、そのように厳しいのです。反対に、役職がなくても、役職を別問題にしても、純粋に喜んで自行化他にわたる修行を実践するならば、功徳はわいてくるのです。
 ですから、一念の出発としては、自分のためになるのだ、自分が功徳を受けたいのだ、宿命転換したいのだ、として行った場合には、労ではないでしょう。一念随喜です。
同じ行動であっても、言われたからやらなくてはならない、これだけやらないと、体裁が悪いからやらなくてはならない、困ったな、だけども自分は責任があるのだからやっていこうという一念の場合には、その一念が結果になってしまうのです。喜びはわきません。
 一方は喜びからの出発ですが、もう一方は義務として、喜びでないことから出発するので、一念随喜にならないのです。
私たちは一念随喜でいきませんか。(拍手)

中略


 私は幸せなことに、ほとんど一念随喜で戦ってくることができたのです。ですから、学会活動は少しもにしません。

中略


 また戸田先生にお目にかかり、先輩に激励され、ああなんという幸せだろうと。
もしも学会に入っていなかったならば……、もしも自分が信していなかったならば、どうなっているだろうか……と、いつも自分の過去というものを忘れないできているのです。
それが本因妙の信です。いつもいつも自分を忘れず、謝しています。
何とか少しでも、このような甚深なる法を戸田先生から教わったのだ、それを説ける自分になったのだ、ありがたい、自分の力ではない、そういう気持なのです。
まあ、一念随喜できたと私は確信できるのです。いやだいやだとったことは一遍もありません。

【東北第一本部地区部長会 1964-2-17 東北本部 会長講演集11巻より】


「初、忘るるべからず」とは、一般にも言われることです。
この当たり前のことが実できないのが人間のサガなのでしょうか……。
特に、私のように単純な格のばやい――あぶない(笑)
基本的なことであるがゆえに忘れてしまうことが多いですね。


なにか問題にぶち当たると、自分で確認することもせず、判断してしまうことがありがちだ。
役職があるから情報が入ってくる、が、そのまま鵜呑みにするのはあぶない。
必ず自分で確認することが大事なのだ。
いいかげんな情報が飛び交っていることはよくあることだ……。


喜んで戦っていれば、さまざまな知恵が湧く。役職をこなすのではなく、自立の信仰に立った時に喜びが湧く。
最近は、役職によりかかった幹部が多い。憂えている方は多いのではないか。
それぞれが、証明者として喜びのある信仰を実践していくことが大事であるとう。


いろいろあるが、報謝のいを胸に刻み「一念随喜」の信仰者でありたい。
師に続け!
わが師匠は最高の証明者なのだから。