荘厳な高知の夜明け

先頭を走れ 人間主義の世紀へ!


私の愛する詩人の一人に、ホイットマンがいる。
彼は、「先駆者(パイオニア)」という言葉が、大変好きなようで、「先駆者よ!おお、先駆者よ!」と呼びかけ、その精神を強く謳っている。
「(=先駆者とは)安逸で飽満した金持どもではない、わたしたちのためには、馴らされた楽しみなど要らぬ」と。
それは、1978年(昭和53年)12月、6度目の高知訪問の朝に読んだ詩である。


「日本を今一度、洗濯しようじゃないか!」と、幕末の志士・坂本竜馬は言った。
彼は先駆者である。それは何より、こびりついた時代遅れの垢を落とし、新しき識に立たねばならないとの、決であった。
彼のごとく、近代日本の黎明を告げた多くの先駆者を輩出した「夜明けの天地」こそ、わが高知である。


私が初めて高知の大地を旅したのは、1955年(昭和30年)の1月のことである。大阪から、戸田先生にご一緒して、小さな飛行機で飛んだのであった。
それは、わが師の最初の四国訪問であり、大阪、仙台、札幌に次ぐ、地方への“師弟の旅”の4都市目にあたる。
その時、先生は、板垣退助中江兆民ら、自由民権の先人の闘争について講演され「新時代の平和革命の大」こそ、日蓮法であると宣言されたのであった。
実は、この先生のご訪問は、妙法流布の創価学会を理解できない、悪逆の坊主たちとの攻防戦の渦中で行われた。
当時、大阪では、蓮華寺が学会員の御本尊の返却を要求する事件が起こり、高知でも、学会を快くわぬ寺院の問題などがくすぶっていた。皆、日蓮法を利用した、法盗人の連中であったわけだ。
広宣流布をせぬ坊主は、クソ坊主」と、よく戸田先生は怒り、笑っておられた。
学会と共に、広宣流布に働いている人びとは、諸天善神が守り、輝いている。
広布なき法盗人の連中らは、傲慢なの牢獄の中で、自分自身が自分自身のエゴの奴隷となっている。


私の、この1978年(昭和53年)の高知指導は、滞在も7泊8日となり、その間に、約八千人もの同志にお目にかかった。
の勤行会や幹部会だけでも十回以上にわたった。
満潮の潮のごとく、嬉々として集まる情熱が噴き出し、その希望と抱負に満ちた同志の生命の輝きは、決して忘れることはできない。皆、質素であるが、尊き広布の英雄たちである。
折から行われた教学の初級試験の当日も、私は、自ら試験会場を回って激励もした。


相手が一人であれ、何百人、何千人であれ、可能な限り、直接、会って語る。
を尽くして激励する。
それが、真のリーダーの責務であろう。
戦う人には勇気の風を。
悩める友には希望の光を。
そして、求道の闘士には、歓喜と満足を送るのだ。
民衆のなかへ!
人間のなかで!
これが、私の信であり、行動の原理である。
ここにしか、生きた、熱き血の通った人間主義はないと信ずるからだ。
この一点を忘れれば、法といえども、傲慢な権威主義官僚主義に堕落するからだ。
その本末転倒の民衆利用の姿こそ、天と化した宗門の本質である。
当時の高知の寺は学会攻撃の謀略に狂った、悪の巣窟そのものであった。
私は、高知の真実の夜明けを開くために、嵐の夜に屹立する灯台のごとく、「人間のための法」の光を掲げ、一人、死力を尽くして戦った。


この訪問中、私が強調したのは、「“水の信”を貫いてほしい」ということであった。
御聖訓にいわく。
「今の時・法華経を信ずる人あり・或いは火のごとく信ずる人もあり・或いは水のごとく信ずる人もあり、(中略)水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」(御書1544頁)
持続は力である。持続の行動こそ、歴史を根底から動かす。
楽聖ベートーベンも、病にしみながら、必死に創作に挑んでいた四十代の半ば、「ほんとうに点滴石をうがつ。(中略)実際、ほんとうに点滴石をうがつ」と書いた。
流れる水のごとく、何があっても、弛まず、断固と前進する闘争のなかにこそ、信仰と人生と革命の勝利がある。


このあと、私は、1990年(平成2年)の11月にも高知を訪れた。
それは、嫉妬の法主が、私の総講頭罷免という暴挙によって、学会破壊を狙う本を顕す1ヵ月前のことであった。


今、振り返れば、「創価ルネサンス」の前夜である。
まさに、「夜明けの大地」高知の、不議なる宿縁がじられてならない。


ともあれ、暗く灰色の宗門への隷属の道から離れ、我らは嬉々として、桜満開の優美な道を、そしてまた、自負と決断と高邁なる道を、愛する友と歩み始めたのである。
「改革が必要だ!」
新しき宗教改革を叫ばれた、戸田先生の声が、創価の血管の中、血液の中に、奔流のごとく流れ始めた。


【「随筆・新人間革命」1999-8-12 池田大作全集130巻 160頁】