全国代表協議会
戸田先生が「これは、よく拝しておけ!」と何度も厳しくおっしゃった御文がある。
それは、「竜の口の法難」の日の大聖人の御様子が認められた「種種御振舞御書」の一節である。
「日蓮は大音声で彼らに言った。
『なんと面白いことか、平左衛門尉がものに狂った姿を見よ。おのおのがた、ただ今、日本国の柱を倒すのであるぞ』と叫んだところ、その場のものすべてがあわててしまった。
日蓮の方こそ、御勘気(公権力によるとがめ)を受けたのであるから、おじけづいて見えるはずであるのに、そうではなく、逆になったので、『この召し捕りは悪いことだ』とでも思ったのであろう。兵士たちの方が顔色を変えてしまった」(御書912頁 通解)
この大確信こそ、堂々たる姿で、仏法に殉じられた牧口先生、戸田先生の魂である。
そして、その不二の弟子たる私の魂にほかならない。
創価三代の師弟は、この不惜身命の大精神で戦った。そして勝ってきた。
この重大なる一点を、学会の後継ぎである青年部の諸君には、はっきりと申し上げておきたい。
いまだに、繰り返される、出所のはっきりしないデマ、退転者らの根拠の無い誹謗中傷。
かなり変わってきたとはいえ、全ての矢面に立っているのは、師である池田先生だ。
だが、私たちは知っている。
創価三代の師弟の戦いは、広宣流布の歴史に全て刻印されている。
創価三代の師弟が、学会精神の根本だ。
この末端に連なることのできている、身に喜びを感じずにはいられない。
しかし、本当に連なることができているのか。
日々の戦いに流されてはいないか。
「青年部に言われている言葉だから」とか思ってやしないか。
んー、私はたまに思ってしまう。(笑)
いかんいかん、情熱を燃やすぞ!
ゴーリキーは、次の言葉も残している。
「人生には、二つの生き方しかない。
堕落する人生と、燃える人生である」
たしかに、その通りだ。
心が燃えているか、いないか。
確かな目標を目指して、情熱を燃やしているか、いないか。
情熱を失ったとき、人間は、堕落の方向に向ってしまう。
何歳になっても、心の炎を消してはならない。
ゴーリキーは、「老いると保守的になる。これこそ最大の不幸なり」と述べている。
老いることは、不幸ではない。年をとって保守的になることが不幸だというのだ。
壮年部になって、「自分はもう青年部じゃないから」などど、心が引いてしまう人がいるが、それではいけない。
ますます壮んに戦う。青年時代の誓いを、一生、持ちつづける。その人が、人生の勝利者である。
ゴーリキーは言う。
「私は幸福というものを知っている。おお、戦う幸福よ!」
仏法の精神、そして学会精神に通ずる一言である。
幸福は、いったい、どこにあるのか。
波も嵐もない、安閑とした生活のなかに、本当の幸福はない。
幸福は、「戦い」のなかにある。たえざる前進のなかにある。
直接、師と向き合うことはなくとも、池田門下生の誇りを持ち、強き信仰者として常に前を向いて戦っていきたい。
壮年部の私も、はったと前をにらみ。ますます壮んに戦っていきます。
日々最前線でもまれるからこそ、成長があるし、成長していく中に幸福があるのだから。