全国代表協議会


戸田先生が「これは、よく拝しておけ!」と何度も厳しくおっしゃった御文がある。
それは、「竜の口の法難」の日の大聖人の御様子が認められた「種種御振舞御書」の一節である。
日蓮は大音声で彼らに言った。
『なんと面白いことか、平左衛門尉がものに狂った姿を見よ。おのおのがた、ただ今、日本国の柱を倒すのであるぞ』と叫んだところ、その場のものすべてがあわててしまった。
日蓮の方こそ、御勘気(公権力によるとがめ)を受けたのであるから、おじけづいて見えるはずであるのに、そうではなく、逆になったので、『この召し捕りは悪いことだ』とでも思ったのであろう。兵士たちの方が顔色を変えてしまった」(御書912頁 通解)
この大確信こそ、堂々たる姿で、法に殉じられた牧口先生戸田先生の魂である。
そして、その不二の弟子たる私の魂にほかならない。
創価三代の師弟は、この不惜身命の大精神で戦った。そして勝ってきた。
この重大なる一点を、学会の後継ぎである青年部の諸君には、はっきりと申し上げておきたい。

【全国代表協議会 2006.2.28付 聖教新聞


いまだに、繰り返される、出所のはっきりしないデマ、退転者らの根拠の無い誹謗中傷。
かなり変わってきたとはいえ、全ての矢面に立っているのは、師である池田先生だ。


だが、私たちは知っている。
創価三代の師弟の戦いは、広宣流布の歴史に全て刻印されている。
創価三代の師弟が、学会精神の根本だ。
この末端に連なることのできている、身に喜びを感じずにはいられない。


しかし、本当に連なることができているのか。
日々の戦いに流されてはいないか。
「青年部に言われている言葉だから」とか思ってやしないか。
んー、私はたまに思ってしまう。(笑)
いかんいかん、情熱を燃やすぞ!


ゴーリキーは、次の言葉も残している。
「人生には、二つの生き方しかない。
堕落する人生と、燃える人生である」
たしかに、その通りだ。
心が燃えているか、いないか。
確かな目標を目指して、情熱を燃やしているか、いないか。
情熱を失ったとき、人間は、堕落の方向に向ってしまう。
何歳になっても、心の炎を消してはならない。
ゴーリキーは、「老いると保守的になる。これこそ最大の不幸なり」と述べている。
老いることは、不幸ではない。年をとって保守的になることが不幸だというのだ。
壮年部になって、「自分はもう青年部じゃないから」などど、心が引いてしまう人がいるが、それではいけない。
ますます壮んに戦う。青年時代の誓いを、一生、持ちつづける。その人が、人生の勝利者である。
ゴーリキーは言う。
「私は幸福というものを知っている。おお、戦う幸福よ!」
法の精神、そして学会精神に通ずる一言である。
幸福は、いったい、どこにあるのか。
波も嵐もない、安閑とした生活のなかに、本当の幸福はない。
幸福は、「戦い」のなかにある。たえざる前進のなかにある。

【代表協議会 同】


直接、師と向き合うことはなくとも、池田門下生の誇りを持ち、強き信仰者として常に前を向いて戦っていきたい。
壮年部の私も、はったと前をにらみ。ますます壮んに戦っていきます。
日々最前線でもまれるからこそ、成長があるし、成長していく中に幸福があるのだから。