― 随筆『新・人間革命』 ―

この勇敢なる弟子に、信じあえる同志に、私は、なんとしても応えねばならないと、涙に濡れた。ここから、私の四国への御恩返しの訪問の決意は、1日1日、限りなく深まっていった。

【庶民の和楽と栄光の四国 「正義の歌声よ 世界に轟け!」 1999.3.5】


1980年(昭和55年)のことである。
この祝賀の創立五十周年は、果てしなき卑劣な攻撃と、大難の風波が吹き荒れた日々であった。
その本陣である、わが大東京も、さまざまな次元で、悩と杯を嘗めてきた。
一歩、退いたら、牙を抜き取られるような、厳しい状態の日々であった。皆も、何をしたらよいか、どうしたらよいのか、ためらい始めていた。
私は、その姿を見て、あまりにも情けなかった。
なんと、ふがいない幹部たちよ。私を引退させておいて、自分の責任まで忘れ去っている臆病な姿に、私は怒りを覚えた。
初代会長・牧口常三郎、二代会長・戸田城聖の、何ものも恐れぬ獅子のごとき、あの学会精神はどこへいったのか!
寒風の吹きすさぶ、その年の暮れであった。
宗門一派の陰険な嫉妬のために、当時の私の置かれた立場は、会合にも自由に出られず、指導も思うようにできなかった。
恐ろしく黒き権威の鎖が、いつも私を縛りつけていた。
今でも、その黒い陰謀のつながりは、何の道理もなく、私を脅し、中傷し、嘘八百を売り物にしている。

【大東京の不滅の地盤 「我らの行進は 永遠に民衆と共に!」 1999.4.19】


1981年(昭和56年)11月9日先生は、徳島より四国指導に入られたのです。
徳島で全魂の指導激励をされました。

K副会長談
当時はまだまだ、逆風の中でありました。徳島へ入られた事も内密でした。
私は是非、四国研修道場にきていただきますようにと、お願いいたしました。

しかし、大々的に先生の平和行動展を開いた四国研修道場へは、堂々とは来ていただけない状態であったのです。
しかし、翌朝「いこう!研修道場へ」との御伝言が入り、10日に四国研修道場へ来られたのです。

この日は昭和49年に香川の日に制定された日であり。
以来7年目の記念の「香川の日」でもあったのです。
この記念県幹部会の席上でした。

先生より、「もう一度、私が指揮を執らさせていただきます。皆さん、私と一緒に戦ってくれますか!」との師弟共戦の獅子吼がはなたれたのです。

その喜びと決意を、四国の青年部が歌に託しました。それが、「紅の歌」であったのです。


― 学会歌「紅の歌」 ―

先生が、四国文化会館の、建設予定地を視察にいかれた折、青年部の強い要請に応え、青年部代表との懇談会が、11月12日、四国研修道場で開かれることになりました。

東京からのM副男子部長(当時)らを加えて、懇談会の運営について打ち合わせしていた時、“四国男子部歌を作って、我々の決意を託そうじゃないか”と決まりました。

すでに、12日に入った午前4時、4行詩が完成。午前11時になって、作曲者のSさんが招かれました。

やがて、音符はついたものの、皆が納得できる曲ではありませんでした。懇談会の時間は刻々と迫ってくる。どうすればいいだろう、という切羽詰った問いに、Sさんは「私に一つのイメージがあります。あの“原野に挑む”の一節をもとに曲を作ってみたかった。それには6行詩が必要です」と。
その場で6行詩に改編、これが午後1時頃。午後4時に曲が完成。5時まで吹き込みをし、5時半の懇談会にやっと間に合ったのです。最初に完成した詩は、各方面の学会歌の、いいところを張り合わしたような詩だったそうです。

懇談の合間を見て、W四国青年部長(当時)が先生に「先生、四国男子部の歌を作りました。ぜひ、聞いてください」 先生はしばらくしてから、「詩を読んでみなさい」と声をかけた。朗々と読み上げてみると、先生は即座に「いい詩じゃないか」といったので、徹夜組は密かに喜んだそうです。

「題名をお願いします」と、先生は即座に「“紅の歌”」と命名されたのです。
その場にいた青年部のメンバーは、題名を聞いて、自分たちの胸に鮮烈な光彩がサッと広がったような思いがしたそうです。

「曲はついているのかな?」先生の問いかけに、同席していたSさんが紹介されました。

「ああ、君か、“我らの天地”を作った人だったね。よく知っているよ。成長したな。じゃあ、いい曲を作ろう」

こうして、師弟共戦の「紅の歌」誕生へ、二十回以上にもわたる推敲が始まったのです。

師と共に、詩、メロディの徹底的な検討が始まりました。

即席の六行詩の1行、1行を丁寧に読み直しながら、先生はその詩の持つ意義をさらに深めていきました。

「“邪悪の徒には 栄なし”―しかし、悪は栄えないとは限らない。皆自分が正しいと主張するのだ。だから“仏法は勝負なり”で事を決するのだ」

また最初「子よ大樹と育ちゆけ」とあった詩が、「子よ大樹と 仰ぎ見む」となった。
“子”を“仰ぎ見む”というのはおかしくありませんか、という声が出た。

先生は即座に「いや、皆が私より大きくなるのを、私が下から仰ぎ見る、という意味なんだ」推敲を見守っていた青年たちは、感動で胸をふるわせたそうです。

「“老いたる母の 築きたる 広布の城をいざ護り抜け”―今の学会は、君たちの両親たちが作ってきたものだ。君たちが作ったものではない。だからこそ、感謝の気持ちがなくてはいけないのだ」

添削は翌13日も、14日も続きそのたびに“新曲”がテープに吹き込まれました。

ある時は、先生が「出だしは、こうだ」とパッと口ずさんだメロディを菅沼さんがその場で音符に。

また、本物の合唱団が間に合わないため、その場にいた運営役員で即席の合唱団が結成され、先生も「運営合唱団」と命名したほどでした。

先生は、少しでも時間があれば、テープを流しては聞き、皆が納得できるまで修正をされました。
その、先生の執念の光景に接した人は皆、何か、深く期するところがあるのではないか。

その思いがこの“紅の歌”に託されているようだと思ったそうです。

もともとの詩は先生によって、大幅に改編され、のこったのは最初の、ああ、と少しの部分だけでした。

私くすのきの、隣の地区のK地区婦人部長さんが、当時白蓮グループのメンバーで、役員として着任しておられたそうです。
「紅の歌」の清書を、何回も何回もされたそうです。

余談ですがずーと後になって、学会歌集に「紅の歌」作詞 四国男子部有志 と載っているのを先生が見られて「これは、ぼくが作った歌じゃないか」と言われ、新しい学会歌集では、作詞は山本伸一になっています。


― 随筆『新・人間革命』 ―

 若き指導者たちの男子部の愛唱歌「紅の歌」が誕生したのも、同じく、この四国であった。
それは、満月が郷愁を感じさせる、静かな夜であった。
徳島から、香川の研修道場に移ったあと、当時、四国青年部長だった和田興亜君が、四国男子部の歌を作りたいと、歌詞の案を持ってきた。
彼らは、夜を徹して作ったのだろう。目が赤かった。
「よし、君たちのために、私が手伝おう!」と、私は決めた。
私の心は、一心不乱となった。幾度となく、推敲に推敲を重ねていった。
巡り歩きながら、完成の目標に向った。久遠の静かな輝きの月に照らされつつ、一行、また一行と、誇らかにペンを走らせた。
弟子たちは、深い喜びと、自らの進路を確かめるがごとく、見事な完成を懇願するような顔で見つめていた。

ついに、積雲が裂けた!
そこから、燃え上がる空が輝いてきた。曇った心を突き抜けて、永遠の我らの確固たる歌声の鼓動の響きが、胸を走った。

ああ紅の 朝明けて
魁 光りぬ 丈夫は……

「子よ大樹と 仰ぎ見む」の一行には“後継の青年よ、私よりも、もっと大きく成長せよ!”との願いを込めた。
また、「老いたる母の 築きたる」とは、あまりにも尊貴な学会婦人部に捧げた一節である。
いつしか、この明るく清らかな心に照らされた、青年たちとの思い出の推敲は、二十数度にも及んでいたようだ。
完成した「紅の歌」の力強い音律は、新たな世紀へ、勇者と勝利者としての、熱き魂のリズムと化していった。
最後の一歩まで、勝ちゆかんとする、正義の四国の同志は、敢然と立ち上がった。傲慢な権力を倒して、平和を築け!傲慢と、陰険と恥さらしの輩と、決別せよ!

【庶民の和楽と栄光の四国 「正義の歌声よ 世界に轟け!」 1999.3.5】



グラフSGI2003年3月号↑
昭和56年11月に、四国研修道場内で撮影されたものです。


こうして、四国研修道場において、昭和56年11月14日「紅の歌」は完成したのです。


師弟共戦の魂の歌「紅の歌」は20年以上たった今でも四国のみならず、全国、全世界で歌われる、学会歌になったのです。
また、2005年4月には3番の「老いたる母」を「老いたる父母」にしていただき、師の魂を打ち込んでいただいたのです。


K副会長談
あれから、今日の創価学会の大発展のスタートを切ったのです。四国の天地は、師弟共戦の、その歴史を持っているし原点を持っているのです。
四国の事を先生は楽園と言われております。師匠と共に、この四国の天地を寂光土につくりかえて行くのが、私たちの戦いであります。


― 弟子として ―

「紅の歌」の“紅”とは、元初の太陽、時代を切り開かんとする青年の強き生命力をあらわしています。以下は私(くすのき)の勝手な、解釈も含みますが本門の弟子として、この思いで歌っていきたい。

一番は、信仰者として、一切の戦いの“先駆”“前駆”たれ!とともにいかなる障魔が吹き荒れようと敢然と立ち向かい、邪悪と戦い、地湧の誇りを持ち、生涯、民衆の中で戦っていく。

二番は、世間の毀誉褒貶に振り回されず、信仰者として成長し、先生の思いに応えられる一人一人になり、労から逃げることなく師匠との誓いをはたしていける自分に成長していく。

三番は、草創期より、広布の先輩が、非難・中傷を受けながら、必死で築いてきた組織を守り抜き、澎湃と地湧の眷属が輩出するような自由自在の戦いをやり、どんなに大変な戦いも、舞を舞うがごとくの境涯でゆうゆうと結果を出し戦いきっていく。

この思いで、「紅の歌」を元気一杯歌っていきましょう。


本年は、四国で「紅の歌」が誕生してから二十周年。たくさんの同志に愛され、歌われてきた歌である。
当時、会長を勇退していた私は、四国の地から、四国の同志とともに、反転攻勢の指揮を執り始めた。
そして今日までの、世界広布の大道を勝ち開いてきたのである。
原点は四国である。
その前年、昭和五十五年の一月には、四国の千人の同志が、横浜にいる私のもとへ、はるばる船で駆けつけてくださった。これも、広布の歴史に永遠に残りゆく光景である。
四国は、私とともに「正義」の歴史を創り、「闘争」の歴史を残し、そして「勝利」の歴史を開いてきた。
そのことを明言しておきたい。
二十一世紀の勝利の暁鐘もまた、四国から全日本に、晴ればれと乱打していただきたい。

【2001・1・29 第二回本部幹部会・第一回四国総会 創価国際友好会館】


2001年(平成13年)11月18日 「紅の歌」誕生二十周年記念 第一回四国青年部新世紀総会での席上。(東京牧口記念会館)
師匠は「四国を頼む」と言われました。体の中を電気が走りました。
また、このときの参加者は「四国師弟会」と命名していただきました。

この日、四国青年部21世紀宣言が発表。


一、我ら四国青年部は、常に三世永遠の師弟の誓いを胸に、率先垂範の行動で友の心に勇気と希望と喜びを与える存在に成長する。

一、我ら四国青年部は、常に正義の民衆勢力の拡大を目指し、折伏・弘教の先頭に立ち、納得と共感、そして真心の対話の輪を広げる名手に成長する。

一、我ら四国青年部は、常に民衆の側に立ち、日顕宗をはじめとする反人権勢力に対しては、徹した言論戦で、断固粉砕していく。

一、我ら四国青年部は、常に21世紀の勝利の鐘を鳴らすことを目指し、陸続と続く人材群の輩出に全力で取り組む。

二〇〇一年十一月十八日
四国広布の一切の責任を 担い立つ決意をこめて
四国青年部一同


この四国青年部21世紀宣言を、果たしてどれだけのメンバーが覚えているのか…。
「四国師弟会」そして、四国青年部は、一切の責任を担い立つ「楽土建設の革命児たれ!」との思いを込めてここに書き留めておきます。

くすのきはこの時、先生に、「紅の歌」誕生二十周年記念の石版をお届けし、多くの激励をいただき、忘れられない男子部時代の歴史を刻む事ができました。
2001.11.18は私にとって、師弟の誓いを直接結んだ原点の日でもあるのです。


四国からは、先生の参加される会合に出席することのできる、青年部のメンバーはごく僅かです。私自身も本幹のメインに参加させていただいたのは、県男、総県主任部長の時の2回のみです。
その四国の青年部のみの総会に、入られた池田先生
初めて、先生にお会いしたメンバーが多くいました。先生が入場された時には、場内のあちこちから、喜びのあまり、たくさんのすすり泣きの声が聞こえていました。
「師匠からの最大の激励を込めた。新世紀総会ではなかったか」と考える時、「四国師弟会」のメンバーは、結果を持って答えていくしかない。
現実社会の中で、四国広布を一歩でも進めていくことが、師匠にお答えしていくことだ!。


池田先生は会長を辞任されて、「正義」の旗を掲げ、たった一人で戦いをはじめられました。
「紅の歌」とともに、怒涛の反転攻勢の歴史が築かれていったのです。
私たちは、恵まれた環境で戦わせていただいていることを自覚すべきだ。
今の自分達があるのは、師匠の闘争があったればこそだ。
師匠の犠牲が無ければ、今の自分たちは無いのです。

会長を辞任した当時、2世のくすのきは未活でした。ぜんぜん、知らなかった歴史です。
しかし、知らないとはいえ、先生を引退に追い込んだ側に立っていた一人です。
そうであるのならば、先生が思いを打ちこめられた「紅の歌」誕生の歴史を自分の子供の時代になっても、忘れることなく、語り継ぎ、歌いついでいきたい。
それが、歴史を風化させない為の「紅の歌」誕生の地「四国」のメンバーの使命と責任なのです。


志(こころざし)の国「四国」のメンバーの皆さん。
四国広布の勝利の歴史を、共々に刻んで行きましょう。