― 求 道 ―

師を求めるにも、求めるすべてを奪われてしまったその悔しさと寂しさ。何もできない今の状況を何とかしたい。
何かをして「池田会長」との心の触れ合いをもちたい。四国の友は閉塞した状況の中で、師を求める道を探った。
そして、一筋の道を見つけ出したのだ。
「そうだ、待つのではなく先生のおられる所がわかっている。そこへ行けばいいんだ。たとえ、先生に来るな。と言われても求め抜くのが我々の信心だ」


K副会長談。

――昭和54年12月、神奈川文化でその年最後の中央会議がおこなわれました。

まだ、Y崎等が大きな顔をして出入りをしており、重苦しい雰囲気の中、会議は終了。

翌朝、先生に御挨拶にうかがいました。私が廊下を通り過ぎようとししていたところ、ある部屋から鋭い電気カミソリの音が聞こえました。
ふと部屋をのぞくと、先生が神奈川文化の7階の窓から横浜港を眺めながら一人、ひげを剃られていました。
周りに誰もおらず、「おはようございます」と元気に入っていったのです。

以下、K副会長と先生のやり取り。

「おはようございます。先生、お願いがあります。この港に四国の同志で船を乗り付けたいのですが、よろしいでしょうか」
先生は、髭剃りの音で船と港しか聞き取れなかったらしく
『何、ここに船を持ってくるので俺に乗って遊べと言うのか?』
「いいえ、そうではありません。ただ遊んでくれと申し上げているのではありません。1万トン級の船で、一千名の四国の同志を集めて先生のもとに来たいんです」
『なに、一万トン級の船で、一千人がこの神奈川へ、この横浜へ来るというのか』
「そうです」 『ほんとうか』 
「ほんとうです」 『よし、来い!来い!来ーい!』

この時、廊下を秋谷会長(当時副会長)が通られ、その姿を見つけられた先生は

『秋谷、いいなー』
何も知らない会長は「はい」と。
「じゃぁ、早速帰って準備をします」 『ん、待ってる』

以下、その後のK副会長と秋谷会長とのやり取り。

『なに、船で来る。この寒空の中太平洋を船で来るとは、おまえ、何考えているんだ』
「でも、先生が来いとおしゃっています」
『来いといっても、もし万が一の事があったらどうするんだ』
「天候が悪いから海が荒れているから会長はやめろと言うんですか?」
『そうだ、危険だから言うんだ。何かあったら大変だから言うんだ』
「じゃぁ、お尋ねしますが、横浜港と田子の裏とどの位離れているんでしょうか?ここから田子の裏までが荒れているんでしょうか」
(当時、四国からは登山のため、毎月船が出ていたのです。)
『それもそうだな、田子の裏まできているんだな冬でも』
「そうです、あれは小さいですが今度のサンフラワーは大きいんです」
『わかった、わかったよ』

時に1979年(昭和54年)12月28日のことでした。――
こうして、四国・神奈川交流幹部会は四国の友の燃えるような求道心によって開催が決まったのです。


― 船上幹部会 ―

翌1980年(昭和55年)1月13日参加者は高松港F地区へ終結

「先生のもとへ行こう」との呼びかけに、チャーターした「サンフラワー7」は、瞬時のうちに定員になったのです。

出港を前に、沖縄付近に優勢な低気圧が発生との予報。
学会本部からは「中止してはどうか」との連絡が---。

この電話に対して、K副会長は「先生にお伝えください。出港いたします。ただし、出港した後は、すべて船長の判断に任せます」とお答えしたものの、出港後、電話でも鳴って航行困難の知らせでも入れば、小豆島を回って帰ってこなければいけないのかと、不安で一杯だったそうです。

数分後に先生より伝言が

「船長の判断に任すの件、了解。待っている」この伝言を聞いて、K副会長は涙が止まらなかったそうです。

こうして、一万トンの「サンフラワー7」は千名の同志を乗せ、先生の待つ横浜港へ向かったのです。

海上は、風速36m。「大丈夫ですか」とのK副会長の問いに、船長は「大丈夫です。沿岸を回っていけば必ず定刻に着きます」と---。


― 神奈川・静岡合同協議会 ―

“船上幹部会”では、意気軒高に語り合われていた。
――本来ならば、池田先生に指揮を執っていただいて、本年の学会創立50周年を盛大に祝賀すべきである。
牧口先生、戸田先生、そして池田先生という三代の会長が築いてくださった創価学会ではないか。
しかし、今、先生に、自由に動いていただくことはできない。四国にお迎えすることもできない。
それならば、私たち四国が、全国に先駆けて、先生のもとへ馳せ参じて、創立50周年のお祝いを申し上げようではないか。
先生がおられるところが、広宣流布の最前線であるのだ――と。
のちに、手書きで書き留められた、その船内の克明な記録を、私は拝見し、心で泣いた。
船には、ドクター部や白樺(女性看護者のメンバー)の方々も、勇んで同行され、同志の健康を見守ってくださった。
創価班や白蓮グループをはじめ、志願の男女青年部の、はつらつたる献身も光っていた。
船内で皆が楽しく過ごせるようにと、“寅さん”の映画(「男はつらいよ」)の手配も、事前に、そっとお願いしておいた。
ありがたいことに、波涛会(海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)の方々も、太平洋岸の要所要所の岬に待機して、変化の激しい波の様子を、逐次、報告する体制までとってくださっていた。
四国で留守を守ってくださる同志たちも、皆、たえまなく唱題を続け、無事故・大成功を祈っておられた。
そこには、どんなに嫉妬に狂った坊主らが壊そうとしても、絶対に壊せない「異体同心」の金剛の団結が輝いていたのである。

【神奈川・静岡合同協議会 2006-1-16付 聖教新聞


― 歓喜の横浜港 ―

1980年(昭和55年)1月14日午後1時前、横浜港大桟橋に到着。

船が接岸するまで、皆は甲板上の桟橋側にあふれだし、あの大きな船が傾いたそうです。

先生は、船の入港をずっと執務室の窓から見守り続けられ、接岸の報が入るや否や、「さぁ出迎えにいこう」と即座に、周囲の方々が置いていかれそうな勢いでエレベーターの方へ向かわれました。
寒風の中コートを羽織り、花束を携え、岸壁まで出迎えられた先生は「よろしくね」と声をかけられ、白蓮グループの代表を通して、K副会長に花束を贈呈。

勇壮な音楽隊の演奏をバックに、神奈川の大勢の同志と共に歓迎されました。

先生は「よくきたね。本当によくきたね。これで21世紀はみえた。ありがとう」
と一気に語ると、ひと呼吸おいて「まさか海からくるとは!」と表情を和らげられました。
海は世界につながる道であり、未来に続く希望の象徴であったのです。

この場面は、翌日の聖教新聞一面トップのニュースに。しかし、掲載された写真には、先生の姿はなく、右腕のヒジから先しか写っていなかったそうです。

K副会長談
港では、神奈川の音楽隊の勇壮な演奏をバックに、先生がコートを着て、花束を持って桟橋まで迎えに来ていただいていました。先生とともに、写真をとっていただきました。
この光景は今も忘れません。

聖教新聞には、先生の手しか掲載されていませんでした。当時、新聞に先生のお姿は出てはいけなかった。その一枚の写真は今もって大事に持っております。
皆土産の一つでも持ってくればいいのに、何も持たずにきたものだから、先生は皆に御馳走してくださいました。歓待につぐ歓待でした。

そして、1時半から、四国・神奈川合同幹部会が劇的に開催されました。
先生は、「良く来たね、本当に来たね」と何回も言われ、“日本一の激励をしたい”と、自ら“大楠公”“熱原の三烈士”“さくらさくら”をピアノで演奏してくださったのです。


午後7時、日帰りのため、帰りの時間を告げると、先生は「もう帰るのか、もう帰るのか、そうか気をつけてな」と名残を惜しむかのように言われました。

帰りの事です。船に乗り神奈川文化の方を見ました。
神奈川文化の明かりが消え、真っ暗なんですね、そしたら、7階の窓の一角から懐中電灯が振られていました。
船に電話が入りました。

「先生が皆さんに、懐中電灯で手を振られております」

私は、見えて初めて気がついたのですが、それより先に気がついた人が何人かいました。
皆「先生!」と言って、手を振っていました。
船内マイクで放送すると、皆甲板に出て、その灯りが見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。


神奈川文化会館の電灯は消され、いつまでも、いつまでも、7階で小さな二つの光がゆれているのが船上から見えていたそうです。


― 随筆『新・人間革命』 ―

思えば、その前年(1980年=昭和55年)、香川、高知、愛媛、徳島の四県の千名の友が、私の待つ横浜の港へ、はるばると白亜の客船「サンフラワー7号」で駆けつけてくださった。当時、“学会丸”に襲いかかる荒波をものともせず、波頭を越えて――彼らは、意気軒昂であった。
 ああ、この尊き同志よ!
 私は、桟橋に出て、お一人おひとりに合掌し、抱きかかえる思いで迎えた。
 広宣流布に励みゆく方々をば、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とは、「御義口伝」に仰せの「最上第一の相伝」である。
皆が帰途についた時には、神奈川文化会館の窓辺で、私たち夫婦は、船がみえなくなるまで、懐中電灯を振って見送りもした……。

【庶民の和楽と栄光の四国 「正義の歌よ 世界に轟け!」 1999.3.5】


― 神奈川・静岡合同協議会 ―

当時の宗門に遠慮した聖教新聞の紙面では、「交流幹部会」自体は報じられているものの、四国の同志と私との出会いのことは、一行も記されていない。
しかし、誰人も冒すことのできない、いな永遠に冒すことのできない。荘厳な師弟の劇が厳然と刻まれていたのである。
その後、5月にも、徳島の約1000人の同志、そして愛媛の約1000人の同志が、それぞれ船で、神奈川までお越しくださった。
2回とも、私は心から歓迎させていただき、忘れ得ぬ歴史となった。
のちに、私はこの方々を、「三千太平洋グループ」と命名させていただいた。
学会が一番、大変なときに、私とともに、一番、深く、一番、尊い歴史をつくってくださったのは、四国の友であった。そしてまた、東海道の皆さまであった。

【神奈川・静岡合同協議会 2006-1-16付 聖教新聞


昭和55年5月 神奈川・横浜港で撮影されたもの。四国の友を見送る池田先生。
グラフSGI 2003年3月号 ↓


― 証明 ―

四国の同志は、ただ師を求め、師のもとへ駆けつけ(神奈川へ)、智慧を振り絞って戦いました。それが、全国で初めて、四国研修道場で開催された。

「人間讃歌の世紀」めざして―池田SGI会長の平和行動展−だったのです。
(1981年(昭和56年)10月3日から11月3日)
青年部の代表が、先生の元に行き、直接、展示の許可をいただきました。
世界の識者や指導者との対話の様子をパネル展示。さらには各国から送られた記念品なども展示しました。
聖教新聞に先生の姿が出ない中、内外の多くの友が、鑑賞し、その心に、師の真実と平和への思いの深さを焼き付けたのです。
四国発の戦いで、先生の正義を証明したのです。

K副会長談

神奈川文化から帰ってきまして、W副会長(当時青年部長)と夜を徹して語り合いました。

広宣流布の最前線とは、池田先生のところだ」
「世界広布の先陣を切って、血まみれになって戦っておられるのは先生だ。だから、先生のところに矢が飛び非難が集中するんじゃないか」
「先生は、後ろに座っているんじゃない。我々こそ後方部隊で安穏としているじゃないか」
「ならば最前線の模様をもっともっと知るべきである。海外の要人とあったり、海外へ駒を進められる師匠の姿を我々はあまりにも知らなすぎるではないか」


神奈川文化へ、馳せ参じた求道心は、やがてもう一つ開いて「平和行動展」の開催となったのです。(6万人が鑑賞)

開催期間中は、毎日先生から「ご苦労様、ありがとう」とコメントが入ってきました。
当時はまだ、先生のことを言えば非難されるということがあった中での、戦いであったのです。


「紅の歌」 5  反転攻勢のノロシの歌