「人間革命」12巻より 第2回


ひき続き。学んでいきます。

憂愁の章より


 戸田はこれまで、わが身を顧みることなく、広宣流布に挺身してきた。戦時中の獄中生活でボロボロになった体を十分に癒す暇さえなく、学会の再建に着手し、無理に無理を重ねて、激動の時代を一気に駆け抜けてきたといってよい。
 えば、彼が最初に発作を起こしたのは、昭和29年の2のことであった。その時点では、まだ大きな疾患を発見することはできなかったが、過度の疲労が恒常化しており、静養が必要とされていた。
 彼は気分がわしくない時などに、主治医の矢部医師や学会員であった医師の二見浩に診断してもらっていたが、それとても、目下の体調を確認するための参考としていたにすぎなかった。そして、体調が少しでも回復すると、不快であった日のことをけろりと忘れたかのように、東奔西走するのであった。
 しかし、31年の春から秋にかけて、参議院議員選挙の支援のために全国各地を駆け巡るなかで、戸田は著しく健康を害した。このころから尿量の増加とともに、夜間の頻尿、口渇といった症状があらわれていた。矢部医師は、検査の結果、正常値が1デシリットルあたり100ミリグラム以下である血糖値が180と出たことから、真正糖尿病と診断をくだし、鋭、治療にあたった。
 戸田は静養らしい静養をすることもなかったが、数かのうちに健康を回復し、31年の12には、尿糖も「+−」となり、血糖値も110となって、ほぼ正常に近い状態にまで戻ったのである。しかし、彼の体の抵抗力は低下したのか、風邪ぎみの日が多くなり、年末には数日間、自宅で寝込まねばならなかった。
 こうして32年を迎え、彼はしばらく小康状態にあったが、大阪の参議院議員補欠選挙を終えた430日、ふたたび発作を起こして倒れたのである。このとき、すでに肝障害の徴候があらわれていた。
 そこに、あの夕張の炭労の問題と、理事長の小西武雄や参謀室長の山本伸一不当逮捕された大阪事件が起こったのである。この2つの事件の辛労は戸田をいたく苛み、疲弊させた。それは彼の健康を損なわずにはおかなかった。戸田は我慢に我慢を重ねていたにちがいない。このころから、彼はひどく痩せはじめた。夏の軽井沢での静養など健康にも気を配りはじめたが、体は刻一刻と病に蝕まれていたのである。しかし、人々の多くは、彼が病に侵されていることに気づかなかった。
 さしもの戸田城聖も、ここにいたって、医師の治療に身を任せざるをえなかった。
 絶対安静とされ、厳密な食事療法、それに新陳代謝の改善、肝臓庇護、解毒、肝細胞の再生修復のための薬物投与が行われた。

【「人間革命」12巻 憂愁の章より 文庫本198頁】


戸田先生が出獄されてよりの「自身の体」をもいとわずの激闘に学んでいかなくてはと――動。
その上に、お酒が好きだったようですから体が悲鳴を上げてしまったのですね。


しかし、この戦後の大闘争があったからこそ今日の「創価学会」があり、今の私がある。
戸田先生池田先生の「師弟不二」の戦いで「創価学会」は築かれてきたのだ。


んー、「人間革命」を読み返すと書き込みたいことが、どんどん増えていきそうです(笑)
脱線しないように書き込んでいきます。