第一回四国総会1

戸田先生は、四国には高知しか訪れておられない(=昭和31年1月)。牧口先生の来訪はなかった。私は戸田先生の訪問の折、お供をして、この地に法戦の第一歩を刻んでいる。高知は、ことのほか忘れがたい、大好きな天地である。
戸田先生は、竜馬について、よく私ども青年に語ってくださった。この高知から、歴史回天への船出をした竜馬。それは、日本の新しい夜明けを告げる、青春の旅立ちだった。どうか、今度は皆さま方が、人類史に希望の夜明けを開く新しき広布回天の出発をしていただきたい。

1990-11-27 第一回四国総会 高知文化会館 全集75巻 318頁】


1990年(平成2年)12月第二次宗門問題が勃発した。
その直前、12年ぶりの高知指導で、先生は新しき広布回天の出発を呼びかけられた。
私は、竜馬にあこがれ(単純)翌年、頭髪をちょんまげヘアーに、県男になるまでそのスタイルで通した。(笑)
副本部長になるまでヒゲもはやしていた。見た目は最悪の男子部だ。(爆)
余談だが、壮年部になって、またヒゲ顔になっている。


この年は「原点・求道の年」。学会にとっても、本当に信仰の原点を見つめなおす年となった。
私はこの年の夏、大石寺にて最初にして最後の「地区リーダー夏期講習会」に参加。旗を持って走り回っていたことをい出す。(笑)トン汁定食を食ったこともなつかしい。


私たちは宗門問題の発端となる「お尋ね文書」なるものの味もよくわかっていなかった上、この年の大晦日には、寺の警備に着任した。(私は牙城会であったが、地方では良くある)
翌年の元旦から「地涌からの通信」が発信、富士の清流が濁流まみれであったことを知ったのは、もっと後のことであった。
このことをタイムリーで体験していない青年部が多い今、怒りをもって、語り継いでいかなくてはならない歴史だ。
大事な戦いの最中ではあるが、断じて忘れてはいけない、悪侶どもがいかに、学会員を利用していたのかを。