随筆「人間世紀の光」104


御聖訓には、「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」(御書 951頁)と仰せである。
つまり、皆が集まり、御書を学び合い、互いに励ましあい、信心を深め合う座談会こそ、日蓮仏法の正しき実践の在り方なのである。
ある時、牧口先生に、一人の青年が意見を述べた。
「座談会ではなく、もっと大規模な講演会形式にした方がいいと考えますが……」
先生は言下に答えられた。
「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。
日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」
牧口先生は、たった一人のためにも、遠路をいとわず訪ねられた。相手が一人いれば、そこが座談会になった。
先生の信念は獄中にあっても微動だにしない。
「さあ、問答をしよう!」相手は取調官である。
「よいことをしないのと、悪いことをするのと、その結果は同じか、違うか」
理路整然と、宗教の正邪を論じ、折伏されたのだ。
戸田先生も、ご自身の会長就任式で、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話からだ」と叫ばれた。 学会をこよなく賛嘆されていた大学匠の堀日享上人も、常々、「創価学会の強さは、今までにない布教法にある。それが座談会だ」と言われていたという。
「一は万の母」である。
「たった一人でもいい。目の前の一人に、この大仏法を語らずにはおくものか!」
広宣流布の拡大は、この歴代会長の一念から始まったのである。

【伝統の「座談会」の思い出 下 2006.1.20付 聖教新聞


折伏精神あふれる座談会が、広宣流布の根本の戦いである。このことを忘れてしまうと惰性という魔に食い破られてしまう、戦う一念がなくてはならない。
私たちは、ともすると会合に参加する事が、目的となり、大きい会合が大事だと思ってしまいがちだ。
しかし、折伏精神あふれる座談会が広宣流布の拡大を成し遂げてきたのです。
師に切り開いていただいた、広宣流布の大道を勇んで前進していきたい。


私の男子部時代の個人折伏は、五世帯。お守りはしたことがありません。
今、仏法対話をしている方は2人、「この大仏法を語らずにはおくものか!」
この折伏精神で戦います。