恋さんの昭和54年


研鑽板(通称斧板)で恋さんが昭和54年当時のことを書き込まれています。


― 沖浦さんの誤謬をガンガン破折スレ? ―


あの時、学会員はふるいに掛けられた。
ほとんどの学会員さんは、情報のない中「師」を求め悔し涙をながした。


当時、学会から「遁走した」と明言している某氏は、「人本迹」なる邪義を打ち立て、大きな顔をWeb上にさらしている。
殺し文句は、「言いたいことがあるなら、会いに来てみろ」と「対話が大事」との先生の指導を利用した主張です。
一見、正しいのかとわれる言葉なので、おろかな学会員が何人か追従している。
だいたい、文字だけのWeb上で知り合った方と、簡単に会ってはダメです。
一般にもWebを通したトラブルが良くあります。
文字の世界ですから、どうとでも自分を作ることができる世界なのです。
出会い系信者とでも名付けておきましょう。


まあ私も、何回か非公認板に書き込んだこともある。
某氏とまともにコメントを交わしたのは、一度だけ研鑽板で。概要ですが……。
組織のど真ん中で戦っていく」との私の書き込みに、「組織内で戦うことより、外で戦うことが大事なのではないですか」と返事があった。


一見、その通りであるし文字の世界ですから、「組織内でも、外に向いても徹底して戦っていく」という趣旨の返事を書き込んだ。
当時は、そんなに考えていなかったこともあります。


んが、今考えると、かの御仁にとっては、学会活動の中に世間に打って出る戦いは入っていなかったのだといます。
学会活動の基本は「自行化他」ですから、組織のど真ん中で戦うということは、社会でも徹底して戦うということです。
かの御仁は、それが分からないからかの指摘をしたのです。


いかにも、「私が正しい」というような主張には惑わされないようにしていきたいものです。
だいたい「正信会」のことを知らなかったって楠板で見たけど、某氏が「昭和54年に大義分を掲げて学会を見切った」と主張するほど当時のことを分かっていないことが明白になってしまった。


恋さんの書き込みを読めば、某氏との違いは歴然です。
本当に当時は活動していたのか?と、思えるほどです。
神戸で当時の某氏のことを知っている方からの発信を期待したい。


いずれにせよ、邪義に振り回されないようにしていきたいものです。


謗法に対し「布施を止めよ」との大聖人のお言葉に従えば、非公認板は見ないことです。
そうすれば、もっともっと愚かな姿を晒してくれることでしょう。