婦人部代表者会議


ひな人形を見ると、思い出すことがある。
戦時中、私の家は4人の兄が兵隊に取られ、働き手を皆、失ってしまった。子どもたちがいなくなり、父はがっくりしていた。
そして、大好きだった長兄はビルマで戦死。母は、どれほど悲しんだか。それも、戦死の公報が来るまで2年間くらい、その事実がわからなかった。
戦争は、本当に憎らしい。
最初に住んでいた家は人手に渡り、そこには軍需工場が建った。
同じ鎌田の糀谷2丁目(現在の大田区)に移り、立派な家を建てた。
しかし、その家も昭和20年(1945年)の春には、空襲による類焼を防ぐために強制疎開させられ、取り壊されてしまった。本当に残だった。
疎開先は馬込だった。母の妹の家があったところで、東京といっても周りは畑が多く、当時は田舎だった。
そこに建て増しをして、住むことになったのである。
しかし、ようやく家具などを運び終え、明日からは皆で暮らせるという夜に、空襲があった。
私たちは、裏山にある防空壕に逃げた。本当に恐ろしい状況だった。
あんな空襲の中では、勇ましさとか、勇気とか、そんなことは言えない。それが現実だった。
やがて焼夷弾が命中して、家は燃えてしまった。吹き上げる火の中で、私は弟と一緒に、必死になって荷物を持ち出そうとした。
しかし、ようやく運び出せたのは、保険の書類や通帳などが入った大事なカバンと、大きな長持ち一つだけだった。あとは皆、燃えてしまった。
翌朝、長持ちを開けてみると、中から出てきたのは、ひな人形であった。家族にとって、残ったのは、このおひなさまだけだった。
それでも母は、「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」と明るく語り、皆を励ましてくれた。
戦争がなければ、どれほど良かったか。
戦争のせいで、幸福だった家庭が、どれほど不幸になったか。
これからという秀才が、未来の大指導者が、どれほど死んだり殺されたりしたか。
本当に戦争はよくない。戦争ほど悲惨なものはない。
多くの人は、もう戦争の残酷さを知らないかもしれない。空襲警報の音を聞いたこともないだろう。
しかし、未来のためにも、戦争の悲惨さを絶対に忘れてはならない。平和の尊さを訴え続けなければならない。

【婦人部代表者会議 2006.3.7付 聖教新聞


先生はこの指導のあと、国連のチョウドリ事務次官の言葉をひかれています。


「手を差し伸べて一緒になって対話をする。そこから平和は、はじまるのです」
「女性は“平和の文化”を構築するために、さらには紛争の平和的解決を促進するためにも、大きな貢献ができるし、実際にできていると思います。なにより社会の中で対話というものを広げていくうえで大きな役割を果たしています」
「女性が平和のプロセスにかかわると、より広い視野で社会を考えることができるということを何度も経験してきました。それは女性が本来的に平和を求めている存在だからだろうと思います」


婦人部の対話運動はすごい!「平和の文化」のにない手だ。
寡黙になりがちの壮年部と違い、マシンガンのように言葉が飛び出してくる。(笑)
たまに、マシンガントークのえじきになってしまうこともある-----(爆)


くすのきも、組織の最前線におられる、婦人部員さんの話には学ぶことが良くある。
女性の方の大好きな噂話の中にも、「本当にいろいろなものをよく見ているなあ」と感心させられることが多い。
特に、権威主義的なことには超敏感。
押し付けの戦いはすぐに見抜かれてしまう。創価の母は、たくましい。
女子部の時はかわいらしいのに……。(笑)


くすのきの決意。
女子部・婦人部のメンバーが、喜んで戦えるよう、押付主義の防波堤たれ!
世界から悲惨の二字をなくしていく、対話をもっともっとしていくぞ!