教学と実践

私が入信した当時、もっとも胸を打たれたことは、私は青年ですから、体が弱かったのですけれども「信仰などというものは絶対する必要はない、信はしまい」こういう考えでありました。だが戸田先生にお目にかかりまして、そのときに、静かに先生は次のような味のことを申されました。
それは、一つには「これから長い人生である。どういう宿命が待ち構えているかもしれない。いつどのようになるかもしれない。君は一生涯、ゆうゆうと人生を生きていく信があるのか」と。
それは私も、そのときぶつぶついろいろなことをいったことを覚えております。
だがそのとき、私ののなかにはなにもありません。観的には、やれ社会主義だ、やれニーチェだ、やれマルクスだ、やれエマーソンだといえるわけです。しかし、なんらそれが私の人生の一生涯のバックボーンではないわけです。
また、先生は「もしか老いたときに、振り返って、どれだけ自分が有義な人生を生きたか、価値ある人生を生きたか、そのときに悔いても、もうおそいではないか。一瞬のうちに老人になってしまうよ」と。
「ウソであるか、ほんとうであるか、日蓮大聖人様の法を勉強し、実践してみなさい」とこのようにもいわれました。
また「死ぬという問題にたちいたった場合、ゆうゆうと死んでいけるか」と、そこまできますと「なるほど、なにか青年時代から持たなくてはならないな」と、このように私は深くじました。
「そういう一切の人生航路、生命航路の現実は厳しい。それを打開していく根本であるがゆえに大聖人様の法を勉強してごらん、実践してごらん。もしウソであったならば、戸田の首をあげよう。いつでもやめたまえ、一銭も払うわけではないし、君のためであって、なんら、学会のためではないのだから」と指導を受けました。
いまのように、創価学会は会員も大勢いないのです。青年はその当時九人ぐらいしかいない。それで弾圧されていた時代であります。
私は「よし、三年でも五年でも、この先生が言われたことならばやってみよう、徹底して勉強もしてみよう」と決し、それから御本尊様をいただき、勉強してまいりました。

四国第二本部幹部会 1964-1-17 高知市・県民ホール】


昔の講演集は、しゃべったことをそのまま原稿に起こしているようで、頭の中で先生が話されている場面をい浮かべながら読むとよく分かります。


任用試験が近づいてきましたね。
我が家でも、あさってから勉強会を開くことになりました。
支部で受験者は3。しかも皆女。(笑)
我が支部の婦人部の未来は明るい。よしっ!
男子部・壮年部は大変だ。(笑)


教学を通し「自立の信仰」「一人立つ精神」を共に学んで行きたい。
合否より、力になる教学を目指せ!