第一回四国青年部新世紀総会3

中国・広州大学「誉教授」称号授与式

四国の丈夫に絶大の信頼

ところで、孫文先生が、その最晩年、北京の病院から電報を送り、病床に招いて遺言を託した一人の日本人がおりました。
孫文先生が、そのように絶大な信頼を寄せていたのは、だれであったか。
じつは、その人こそ、皆さん方の先人にあたる、四国の丈夫であったのであります。(高知県出身の民権運動家・萱野長知氏〈1873年-1947年)
孫文先生と交友を結んだ日本人の中には、利権に目がくらんだり、傲慢不遜になる人間も少なくなかった。しかし、この自由民権の大地・四国出身の人物は、誠実な友情と尊敬と信義を、変わることなく貫き通したといいます。
彼は、いわれなき誹謗や悪口を浴びせられようとも、微動だにしなかった。その信強き四国の人物を信じ、愛した孫文先生の情が、私には、よくわかります。


それは、私が会長を勇退して、まだまもないころでありました。私が指揮を執っていた神奈川文化会館まで、千人の同志が、はるばると太平洋の波を乗り越えながら駆けつけてくださった。
その方々こそ、ほかでもない、四国青年部の皆さん方のお父さん、お母さん方でありました。
いちばん大変なときに、真っ先に私のもとに来てくださったのが、いちばん遠い四国の方だった。これが四国の方のなのです。
あの日、四国の友は、わざわざ、汽船(さんふらわあ7号)を出して、やってきてくれました。
私は、神奈川文化会館の一室の窓辺で、船が着くのを待ちにしていました。港に到着したときの、懐かしい皆さまの顔が、今も鮮やかに目に浮かびます。
あのとき参加された人はいますか。(会場には四国の壮年・婦人部の代表も参加しており、多くの人が誇り高く挙手をした)
皆さん、お元気で、私はうれしい。私は、あの光景を一生涯、忘れることはないでしょう。
仏勅の学会がもっとも大変な法の時に、悔し涙を流しながら、必死に真剣に戦い抜いてくれた、けなげな四国のわが同志を、私は、三世永遠に護っていく決であります。
どうか、ご家族の皆さま、また地域の方々にも、くれぐれも、よろしくお伝えください。

2001-11-18 四国青年部総会 東京牧口記会館 池田大作全集93巻191頁】



萱野長知氏という、高知出身の人物の前をこのとき初めて聞いた。
彼は、自由民権の土佐に育ち,中国革命との出会いによって,生涯を日中友好に捧げ、孫文との親交をもって革命運動を支援,日中戦争の激化にも平和交渉を継続,奔走した人物だそうだ。
誠実な友情と尊敬と信義を貫かれた生き方に、深い銘を受けます。


正しいことが見えにくくなった現代社会において、歴史上の人物の生き方を学んでいくことは「正義とはなんぞや」ということを学ぶことに通じるといます。
高校中退で勉強嫌いの私でも、男子部時代のスピーチ学習のおかげでさまざまなことを学ばせていただいた。この一点だけをとってみても「創価学会は人間大学」だとう。
「正義」というと「味方」(笑)――と考えてしまう私にとって、「創価学会」は最大の味方だ。
どうしようもない私に、まっすぐに向き合ってくれたのは創価の先輩の方々であった。時には烈火のような叱咤があり、時には最大の激励をしていただいた。それは今でも変わらない。
「自分にしてもらったを後輩に返していけ」との言葉が今もに刻まれている。
組織が人間の集まりであるいじょう、いろいろな問題に直面することもある。自分のいたらなさに歯がみすることも多い、しかし、信仰者はあきらめ無い。挑戦しつづけることが大事だ。
今年は大事な一年、前進・勝利の雄叫びをあげていきたい。