「第四回四国総会」3


故郷を越え、民族を超え、宗教を超えて――私は、世界の方々と幅ひろく対話を続けている。法といい、広宣流布といっても、「人間」と「人間」の出会いから始まる。
「人間」を抜きにして、宗教もなければ、平和もない。「人間」同士が語りあい、理解しあうことが、一切の土台となる。その意味で、「人間」として、世界の舞台で信頼されなければ、何も始まらない。
「法」が立派だから、「人」はどうでもいい――そんなことは断じてない。
大聖人は「法妙なるが故に人貴し」(御書1578頁)と仰せである。その証明のためにも、現実に貴き振る舞い、人格であらねばならない。
「最高の法」を持っているといいながら、人間は放蕩とウソの「最低の人」。これでは、だれが法を信じようか。法を汚し、おとしめるだけである。
また、謙虚な気持ちで、いろいろな人から学びたい――これが、対話を続けるもう一つの理由である。
立場はどうあれ、厳しい試練を超え、生きぬいてきた人は偉大である。一言に、十倍、百倍の深みがあり、広がりがある。顔に刻まれたシワや、目を見ただけで、その人の大きさが伝わってくる。その意味から、いろいろなものを吸収したいとの思いで、私は多くの分野の方々と対話してきた。

【第4回四国総会 1993-12-3 四国文化会館 「池田大作全集」第84巻17頁】


内外を問わず、全ての関係は「対話」から始まる。言葉だけ立派なことをいっても、振る舞いが最低であれば信頼されることは無い。当たり前のことだ。
もとより池田先生とは次元が違うが、自分でなければ「対話」のできない友人もいる。友人から見ると「私が創価学会」なのだ。これも当たり前のことだが、日ごろの振る舞いには気をつけたいものだ。


ある婦人部の幹部の方が「折伏につながらない対話は、対話のうちには入らないのよ」と言っていた。
反論してみた「折伏になるとかならないとかよりも、対話を通して、先生の指導や創価思想を語っていくことが大事なのではないですか」と。
反応は――ご想像にお任せします。
変な原理原則にこだわる人と話していると、疲れます……。(笑)


相手が悩んでいる時には、「信仰の確信」を語っていくべきだ。悩みに切り込んでいくのが折伏なのだから。しかし、そうでない場合は「友好対話」が大切だと思う。
「友好対話」とは、まさに「友好」を広げる戦いだ。「折伏」にこだわる必要は無いだろう、味方を作っていく戦いなのだから。
「対話」から全てが始まるのならば、自分に縁のある方々に、本当の創価学会を知ってもらうべく語りに語っていきたい。