人間革命12巻より 第6回

後継の章より


 そのころ、戸田城聖の健康は、日を追って回復しつつあった。
 12下旬には、彼の肝硬変症は奇跡的におさまり、医師は、ほぼ正常に戻ったと告げたが、1に行った検査の結果は、さらに良好と出たのである。
 ――尿ウロビリン体、並びにビリルビンも陰となり、黄疸指数もほぼ正常値の8となり、肝臓も明らかに縮小していた。ただ、尿糖が陽を示していたが、これは軽度であり、いますぐ生命にかかわるものではない。全身の衰弱はまだ残っていたが、剛毅な戸田は元旦には本部にも顔を出し、また、総本山にも赴いた。そして、疲れがひどくなると、2、3日静養しながら、復帰の日を待っていた。
 肝硬変症からの危機を脱し、ひとまず病を乗り越えた戸田は、快気祝いを行うことをいついた。彼が病床に臥している間、懸命に頑張ってくれた首脳幹部を招いて、その労をねぎらいたかったのである。戸田は、その日を、彼の58歳の誕生日にあたる211日とした。

【人間革命12巻 後継の章より 文庫本258頁】


黄疸指数の正常値は、2〜6mg/dlで、8はほぼ正常値に近い数値です。
最初は48あったのですから、まさに「奇跡的」な回復をされたことがうかがえます。


そのまま、続けます。

後継の章より


 214日付の聖教新聞戸田城聖は、『私の闘病80日』と題する手記を寄せた。
 病となって彼を襲った大ともいうべき、この闘病体験を、戸田はありのままに全会員に伝えておきたかったのであろう。
 「小事にすら前兆がある。ましてや、大事においてをや……。昭和26年、会長就任以来、まさに7年、振り返って考えるに、そのとき『75万世帯の折伏をなしえなければ私の墓は建てるな。骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに、大御本尊の御威光盛んにして、32年度にもうすでに75万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、法華本門の大講堂落慶を目の前にみるにいたった。
 愚人の誉このうえなきものとしては、私はよろこぶとともに、三障四魔の出来かならずあるべしと、わざるをえなかった。はたせるかな、昨年の4以来、これが病死魔として、いくたびか、わが身に襲いかかった。『きたな』とったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったが、俄然、1120日、重大な病床となり、ついに立つあたわざる状態にいたった。
 どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができた程度にすぎない。土台も、また柱もと考えていけば、この生命は、いま、みすみす捨てられないようである。医者は『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる』という。私は医者に言った。『あなたは、医者としての最善の手を尽くして下さい。私も少少、生命哲学を学ぶもの、生命を延ばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしく頼む』と。
 のなかでは、『この最悪な闘病は1か、正には初登山をし、3の大講堂落慶総登山には、自ら総本山にいて、その総指揮をとる』と決めていたのである。事実、正には初登山を行い、総本山で、5日間を過ごした。そして、幸いにも下山後、17日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病の症状が、まったくなくなったことが明らかになったのである。残るは糖尿のみであるが、これは、現時点では、直接、生命に急激な危険は伴わないことを知っている」
 戸田は、まず、回復にいたるまでの経過を簡単に記していった。そして、次に医学と信仰の関係について論じている。
 彼は、自分自身の体験を通して、日蓮大聖人の法の偉大なる力を明らかにしようとしていた。体験こそ万言に勝る証明である。

【人間革命12巻 後継の章より 文庫本265頁】


つづきます。